メッセージ(大谷孝志師)

義人は信仰によって生きる
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年9月15日
ガラテヤ3:1-14 「義人は信仰によって生きる」  大谷孝志牧師

 この手紙を読むと、パウロはくどいくらいにガラテヤの人々への非難を並べ立てています。しかし、彼はただ彼らを非難しようとしてるのではありません。1:6で「私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって召して下さった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移っていくことに」との言葉に、この手紙を描いた彼の思いが示されています。彼は言葉を尽くしてキリストの恵みから離れているこの人々を彼が伝えた福音に立ち帰らそうとしているのです。彼らに与えられたキリスト恵みとは何でしょうか。今日の箇所に彼が記す「十字架に付けられたキリストが目の前に描き出された」、「御霊を受けた」、「あれほどの経験をした」、「御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる」という恵みです。彼らがその素晴らしい恵みを味わった事実を思い起こさせ、それが今、どうなっているのかと語り掛け、彼らがかつて味わい、今忘れている恵みを思い出して欲しいと強く願うからです。その願いが大きい故に、自然と真剣で厳しい口調になっているのです。

 「初心忘るべからず」「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という言葉があります。人の弱さをよく表している言葉です。でも、忘れてはならない初心があり、喉元に暑さを感じた経験があるからこそ、言えることです。パウロが懸命に語り掛けるのは、彼らがかつて熱く燃えるような思いを持ったからです。確かに今は冷めています。しかし、今はそうでも、彼らがかつてその思いを持った事が、計り知れぬ重さを持って彼らの内に蓄えられているからです。

 ですから、私達は彼の彼らへの非難を聞いて、彼らは何と惨めでだらしないかと思う必要はありません。それどころか、私達は彼らより酷くないと感じたら、ルカ18章のパリサイ人と同じになってしまいます。彼らは確かに初心を忘れました。しかしパウロが自分達に激しく語り掛けるその言葉の中に、神の御旨を聞き取れたのだと思います。彼の言葉を神の言葉として受け止められたのです。だからこそ、この手紙が聖書に残されたと私は思います。しかし、彼らが神の恵みを忘れ、彼が伝えた福音から離れたことは確かです。今日はこれを他山の石として、共に御言葉に聞きましょう。神は人を恵みを忘れられるほど自由な者、同時にその恵みに生きる責任がある者として創造したのです。彼らに向けられたパウロの激しく厳しい言葉を、素晴らしい主の恵みを受けたのに今のあなたはどうかと、自分に向けられた主の言葉として聞きましょう。初心に立ち帰り、恵みに相応しく生きる者となりましょう。

 義人とはどんな人でしょう。信仰や行いが神に正しいと認められる人です。旧約聖書のヨブは恐ろしい程の災いを受けた時、妻に「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか、神を呪って死になさい」と言われますが、彼は「私達は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けるべき」と言い、罪を犯しませんでした。彼は正しい信仰により生きたのです。素直に神の御旨として受け入れれば善いと分かっていても、それを受け入れ、耐えるのは辛く苦しく難しいことです。でも彼は受け入れました。

 私達はイエスを主と信じて生きてします。信じようと求めています。それが素晴らしいことだからです。しかし、信仰は抽象的で目には見えません。信仰によってだけで、自分が神に喜ばれているかどうか知るのは難しいです。ガラテヤの諸教会の人々も、パウロが伝えた福音によって主を信じて生きる喜びを確かに味わいました。しかし、律法を守らなければ救われないと考える人達が来ると、そう教える人々に惑わされてしまったのです。何故でしょう。何もしない人やどう見ても神に喜ばれそうもない人がいます。その人達より、努力して礼拝出席を続けている人や様々な奉仕をしている人の方が神に喜ばれている人と考え易いのではないでしょうか。行いは見えるので、相手の信仰を判断し易いし、簡単だからです。しかしそれでは、「できる」人は良い信仰の持ち主、「できない」人はその信仰も駄目な人になってしまいます。人を外見だけで信仰の善し悪しを判断するとしたら、その人が神に喜ばれる人かどうかを人が決めるという恐ろしいことになってしまわないでしょうか。

 だから、パウロは律法を遵守することでは誰一人救われない、ただ主イエスを信じる信仰によってのみ救われると繰り返しているのです。私達に恵みと平安、希望と将来を与えるのは人ではなく、主ご自身です。主は、賽銭箱に最小硬貨二枚を投げ入れた女性が、誰よりもお金を沢山献げたと褒めました。またパリサイ人が、自分が他の人々のように罪を犯していないこと、この取税人のようではないと感謝しますと心の中で祈りました。主は彼は義人と認められないと言いました。逆に、目を天に向けようともせず、「神様、罪人の私を憐れんでください」と叫んだ取税人が義と認められたと言いました。主は見た目で人を判断しません。主は人の心を、心から主を喜んでいるか否かを見て下さいます。だから、私達は安心して主を信じ、礼拝できるのです。

 それだけではありません。信仰によって生きる時、私達は主の祝福を豊かに受けられます。ですから相手を信頼し、神の家族として安心して共に生きられます。そして一人一人が主に祝福された者になります。それによって、教会の交わりが豊かなものになっていきます。教会が霊的に成長します。なぜなら、相手の信仰の善し悪しを行いだけで決めたら、目に見えないところに秘められている相手の価値、自分には見えないが、別の人には見える相手の良い面、素晴らしいものを否定してしまうことになるからです。麗しいみずみずしい関係ではなく、乾き切ったぎすぎすしたものになってしまいます。外見や自分の思いだけで相手を決めつけると裁きになり、相手との関係が壊われ易くなります。「信仰によって生きる」とは私と相手の間に主を置くことです。主が自分と相手をどう見ているかをまず考えましょう。主が相手も自分も愛している、自分と相手に必要だから自分達を共に生かしていると信じましょう。私達は共に主の十字架と復活により、義人とされた者同士です。古い人の目でなく、義人とされた新しい人として信仰によって相手を見ましょう。救われている者同士として受け入れ合い、愛し合いましょう。愛し合う、これも行いですが、信仰が現れたものです。共に主の御業に励めるよう主が与えた新しい愛の命令です。信仰によって生きる義人になりましょう。