メッセージ(大谷孝志師)

何のための人生か
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年9月22日
伝道者の書4:1-16 「何のための人生か」  大谷孝志牧師

 主イエスは十字架の死を目前にして、世に残る弟子達に「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたが私にあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」と言いました。主を信じるなら、この御言葉に平安を与えられ、勇気と希望をもってこの世に生きることが出来ます。

 私達はテレビやラジオを通して、学校、職場、地域の中でのいじめ、家庭、恋愛関係の中での暴力等のドメスティックバイオレンスに苦しむ人がいると知っています。また、体力的、経済的、社会的に力、権威を持つ人が弱者を虐げる様々なハラスメントに苦しむ人もいることも知っています。それらの被害者の中には、どんな努力をしても無駄と知り、生きていく辛さを逃れ、死を選ぶ人すらいます。私は、そのような人を知り、可愛そうにと思っても、実際には、この伝道者のように上から眺めているだけで、何も出来ないでいると反省させられました。この伝道者は更に、生きながらえている人よりは、既に死んだ人にお祝いを申し上げるとまで言い、もっと良いのは生まれてこなかった人だと言います。彼の言葉に私は厭世的で、虚無的なものを感じました。しかし考えてみれば、彼のように、達観せざるを得ないのが私達の現実ではないでしょうか。

 次に彼は、人の労苦や成功を見たと言います。誰も向上心を持ち、人より良い暮らし、良い地位や立場を求めているからです。それらには人生を有意義にする、家族を幸せにする、社会の為等の理由や目的があります。しかし、その根底にあるのは仲間への妬みに過ぎず、これもまた空しいと言います。

 更に彼は、世の中の様々な人を考察します。自分がなすべき事、できる事が分からずにいて、自分を破滅させてしまう人がいます。その人は愚かな人だと言います。逆に、目標の半分で満足し、休める人もいます。その人は、他人から見れば、中途半端な仕事しかできない人と思われるかも知れません。でも、充分に成果を上げているのに、未だできる事があるとがむしゃらに上を目指す人よりはよっぽど幸せなのだと言います。なぜなら、労苦の為に労苦していることに気付かずに労苦している人の人生は空しく、辛い営みだからです。その人は端から見ると努力家で強い人です。しかし自分が見ているもの、求めているもの以外は見られない人なのです。私も悲しい人だと思いました。その他にも、ひとりぼっちで、友も子も兄弟もないのに、際限なく労苦し、富を求め、飽くことなく貯めることだけが生き甲斐のような人もいます。その人が人生を楽しめなくても、自分が労苦しているのは誰の為だと分かれば、その空しさから解放されるかもしれないと彼は言います。人は終わりのない一切の労苦でも、意味を見出せれば生き甲斐も出てくるからです。しかし、そんな事を思いもせずに、終わりのない、いつまで続くかもしれない労苦を馬車馬のように続けるしかない生活を続けている人もいます。彼はそのような人達を見て、これもまた、空しくて、辛い営みだと彼は言います。

次にこの伝道者は、一人より二人の方が良い面を数え上げます。世の中では、伴侶や友、相棒として選んだ人にも裏切られることも確かにあります。でも彼が言うように、相手と共に苦労しながら得られた報いは最高です。スキューバダイビング等で、一緒に行動する人をバディと呼びます。単独行動は勇気を示す良い機会でもありますが、バディがいれば窮地を脱することもできます。彼が言うように、山小屋で二人で抱き合い、暖め合って助かった話も聞いたことがあります。三つよりの糸は切れにくい、日本でも三本の矢は折れにくいという例えもあります。「一人なら打ち負かされても」はその通りです。彼は「空しく、風を追うようなものだ」をこの部分にだけ付加しません。私はここを呼んだ時、「二人または三人がわたしの名において集っているところには、わたしもその中にいるのです。」との御言葉が心に響きました。そして、共にに集まり礼拝を守ることによって、主が共にいることを実感でき、この世で希望を持ち、喜んで生きられると改めて教えられました。

 さて彼は、この章の最後にイスラエルの歴史を通して学んだ事を記します。貧しくても知恵のある少年はダビデを、年老いた愚かな王は、ダビデやソロモンの晩年を思い起こさせます。牢獄から出て王になる若者は、兄弟達に隊商に売られ、後にエジプトの宰相になったヨセフのことでしょう。王国で貧しく生まれた者は、エジプト王妃の子として育てられながら、ミディアンの親戚のもとに逃げ、羊飼いとなったモーセのことです。王に代わって立つ後継の若者については、ソロモンの死後、長老達の意見を聞かず、同世代の若者達の意見を採り入れたレハベアム王に対抗して立ち、ダビデ家を除くイスラエルの人々が彼の味方となり、王となったヤロブアムを思い起こさせます。

 旧約聖書に登場する人々の殆どは、彼らのような民の上に立つ人々です。伝道者は、誰が王になり、指導者になっても、民は民として存続し続けると言うのです。指導者の中には、人間的に見て不可能な過程で王になった人も、誇れる業績を積み重ねた人もいます。しかし全ての業績は権力者個人のものに過ぎないし、その上、人々はその業績を自分の考えで判断し評価するので、それが適正に評価され、業績を尊重されることはないと伝道者は言うのです。しかしこれは旧約時代の人々の評価です。私達は十字架と復活の主イエスを信じ、私達を愛する主のご計画によって物事を与えられ、示されてこの世に生きています。主はこの私達に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じています。ですからその命令を守り、互いに高め合い、励まし合い、支え合って生きられます。それが出来ます。私達はキリストの体である教会、神の国に生きているからです。

 彼は人生の虚しさ、人々の人気がいかに変わり易く頼りないかを知っていると言います。いつの世にも上に立つ者が生まれ、消えていきます。しかし、それらは個人の努力や怠惰によるのでなく、神の意志と計画によるのです。その人々について、人はいるいらない、従う従わないを判断し、実行します。これも無駄で空しいと彼は言います。神がなさる全ての事には、私達は付け加えることも取り去ることも出来ず、受け入れ、従う以外にないからです。