メッセージ(大谷孝志師)
緩くやわらかに生きる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年9月22日
使徒2:43-47 「緩くやわらかに生きる」 牧師 大谷 孝志

 家の壁や床が古くなり、表面が粗くなると、手足に棘が刺さることがあります。柔らかくすべすべしていれば、触っても安心です。プロ野球が行われる球場のフェンスは、昔は堅くて怪我する人も多かったのですが、今は、怪我防止のためのラバーが貼られています。狭い道に放置された自転車や、狭い階段に置かれていた物にぶつかったりすると、足を踏み外したりして怪我をすることもあります。でも、それが柔らかい物なら怪我をしませんし、道や階段が広ければ、余裕を持って障害物を避けることができます。

 私達の心も広く緩く柔らかな心だと周りの人を傷つけることが少なくなるのではないでしょうか。でも、私達もそうですが、物事を自分中心に、他人の事より自分を第一に考えてしまう弱さを人は誰もが持っています。それで、どうしても心がぎすぎすしたり、周りの人を傷つけてしまう事があるのです。ですから、野球場のフェンスにラバーが貼ってあるように、広い道がより安全なように、私達の心に柔らかいラバーを貼り、広く緩やかな心になれば、人と接触しても大丈夫になります。私達もそのような心の持ち主になれる、と聖書は教えています。

 初代教会の全ての人々に恐れが生じたとあります。それは「使徒たちによって多くの不思議と記が行われていた」からです。人々の理解を超えた神の働きとしか考えられない出来事を見て、目に見えない神の臨在を感じ取ったからです。

 この恐れこそ自分の人生を、自分中心、自分第一の生き方から、神中心、神第一の生き方に変えるのです。自分の殻が打ち砕かれ、神が支配する世界、神の国に生きる者となる時、私達が神の宮となり、聖霊が私達の内に住んでいただけるのです。聖霊に導かれる時、私達の心は、広く緩やかで柔らかな心になります。

 旧約聖書には、人や物に頼ることの虚しさが数多く記されています。主は預言者を遣わし、人や物に頼るのでなく、神に頼りなさいと教え続けました。私達も神は私達の全てを知り、必要な時に必要なものを与えると信じています。しかし、現実には様々なこの世の人や物に頼って生きています。でも、もう一つの現実があります。物は壊れます。古くなれば使い物にならなくなります。人は離れ、裏切ることがあります。お金も使えば無くなります。分かっているだけに多くの物を得ようとし、神に頼るより人に物に頼ってしまうのです。すると心に独占欲が生じてしまいます。聖霊の働きを心の内に閉じ込めてしまうからです。そうすると心が狭くなるだけでなく、棘だらけの心になってしまうのです。自分のものは自分のもの、相手のものも自分のものにしたいという心になってしまうのです。

 初代教会の人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していました。理想的教会の姿、信仰者の生き方の目標がそこにあります。私達と同じ人間の集まりだったのに、なぜできたのでしょう。皆が広く緩やかで柔らかな心だったからです。傷付き、傷付けられる心配なしに、自分を愛するように仲間を愛せたからです。それに、神に頼り、神が支配する世界に生きていると思うと、人の事も将来の事も安心できるからです。彼らは「いつも、使徒たちの教えを守り、交わりを保ち、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。御言葉を心の糧として頂くことに、礼拝を守り祈ることに熱心でした。私達も彼らのように生きれば、広く緩やかで柔らかな心で生きられ、彼らのように救われる喜びを世の人々に感じてもらえる者になれます。