メッセージ(大谷孝志師)

主の祈り(1)
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年10月6日
マタイ6:9-13「主の祈り(1)」  大谷孝志牧師

 主の祈りは主イエスが弟子達に教えたものです。私は幼い頃、意味も分からずに祈っていました。北千住にいた頃、近くの文房具店に西ドイツから来たキュックリッヒ宣教師の家庭集会があり、そこに出席していた母が、主の祈りをしないと朝食を食べさせてくれなかったからです。そのように主の祈りは意味が分かっても分からなくても祈れます。この主の祈りは最も優れた祈りと言われています。それは祈りにおいて大切な項目が列記されているからです。その上、簡潔ではありますが、必要かつ充分な内容が込められた祈りとなっているからです。今週から三回に分けて主の祈りを学びます。最初の1行は、祈る相手である神への呼び掛けの言葉です。だから、この部分は「祈りの内容」ではありません。この祈りを祈る自分達がどんな神に祈っているのかを明らかにしている言葉なのです。

 私達はどんな神に祈っているのでしょうか。当たり前ですが、天にいる神に祈っています。その「天」はどこにあるのでしょう。天は、大気圏外、宇宙のどこかにあるのではありません。聖書には、見える天と見えない天の二つの天の理解があります。見える天は、人間が支配を委ねられている世界にあり、様々なものが飛び交う領域であり、私達が今目で見ている空のことです。この天は、ヨハネ黙示録21:1にあるように、世の終わりに滅び、過ぎ去ります。これに対し、見えない天は、神がいる所、神が直接支配される霊の世界、神の国のことです。ですから「天にまします」と私達が祈る時、この見えない天にいる神に呼び掛けているのです。そしてこの見えない天は、遠く離れたどこかにあるのではありません。ルカ17:21で主イエスが「神の国は、目に見えるかたちで来るものではありません。…神の国はあなた方のただ中にあるのです。」と言うように、神の国、つまり、見えない天は、私達が生きる世界である目に見える天の中に存在しているのです。ですから「天にまします」と祈る時、私達は自分達が生きているこの世界の中にいる神、目で見ることはできないが、私達のすぐ近くに、共にいる神様に祈っているのです。

 次に、私達は「我らの父」に祈っています。私達が祈っている神は「我ら」の父なのです。ですから、私の父だけでなく、私達皆の父であることを思いつつ祈りましょう。更に心に刻んでいて欲しいと思うは「皆」は、礼拝や集会に来る人達だけでなく、家族や友人、自分が祈りの内に覚えている全ての人を含んでいるということです。何故なら、私達の周囲にいる全ての人は、神の支配の中に包み込まれているからです。「我ら」の中の一人一人なのです。全ての人は、今そして将来に、神の子であるという共通点を持つからです。

 とは言え、神の子となる資格を持つのは、主を信じる者だけです。しかし、全ての人は神に創造され、神の本質を受け継いでいます。ですから同じ神を父に持つ家族の一員「神の子」なので、誰でも「天にまします我らの父よ」と呼び掛けられるのです。主イエスは福音書を読むと、求めてくる様々な人々の為に父なる神に祈り求め、神はそれに応えています。この事は、全ての人にとって神は父なる神であることを明らかにしています。主は神の息子ですが、全ての人は主を信じることによって神の養子となる資格を持てます。

 ですから主は、神に私の愛する子と呼ばれる自分を示し、神を父と呼べる「養子」となる資格を全ての人が得られるようにする為に、神の国の福音を伝えたのです。私達の周囲の人々も、養子ではあっても神の子となれるのです。全ての人にその道が開かれているからです。私達は、礼拝や集会で主の祈りを祈る時も一人で祈る時も、神はこの人達の父でもあるとの思いで、未信者の人々を意識しつつ「我らの父よ」と呼び掛け祈る者になりましょう。

 「我らの父よ」についてもう少し考えてみましょう。「我らの」と言っても、一人一人は個性も能力も全て異なります。育った環境も信仰の在り方、求め方も求めるものも様々に違います。だからこそ主は、「我らの父よ」と祈れと教えるのです。そう祈るなら、私達は共にいる人々、心に覚えている人々を「我ら」の内に包み込んで生きることが出来るからです。そして、互いに受け入れ合い、立場や考え方が違っても、互いを天にいる神を父とする神の家族同士と認め合えるからです。私達にはそれぞれ肉親という肉による家族がいます。「血は水よりも濃い」と言われるように、肉親同士は見えない糸で結ばれていて、強い絆があります。主がこう祈るよう教えるのは、主を信じる者同士も、それと同じような、いやそれ以上に強い絆で結び合えるからなのです。神の家族同士としてのお互いを見るなら、教会の中に主の愛、神の愛に満ちた豊かな交わりが生まれるからです。主がこう教えるのにはもう一つ理由があります。人は自分と他人との違いを強く意識することがよくあるからです。それが向上心に繋がり、互いの成長に役立っていけば良いのですが、それが差別や分裂に繋がってしまうことが、教会の中にも起きることがあるからです。それは悲しく、辛いことです。心に深い傷が残ってしまうこともあります。確かに一人一人は違います。でも何度も言うようですが、神の目から見れば皆同じ神の子なのです。だから違いを超え、主にある神の子同士として、「我らの父よ」と神に呼び掛けましょう。私達をこう呼び掛けられるようにするために、主はここに共にいるのです。主が私達の心を一つにして下さっているのです。その幸いを感じながら喜びをもって祈りましょう。

 最後に、私達が神に「我らの父よ」と呼び掛けられるのは、パウロがガラテヤ4:6で言うように、神が「アバ、父よ」と呼ぶ御子の御霊を私達の心に遣わしたからです。これは全ての人に既に与えられている神の恵みです。但し、霊的事実です。教会に来て、或いは、家族や友人、知人のキリスト者から福音を聞き、キリスト者が信じている神は「天にいます我らの父」だと知るなら、誰でも神を「父」と呼べます。また中には、今は神から離れ、背を向けている家族や友人知人がいる方もあると思います。皆、誰もが同じ神の子です。神はこれまでどんな経過を経てきた人でも、全ての人をご自分の「子」として愛しているからです。神の子になるよう招いているからです。それが私達が信じるイエス・キリストの父、我らの父である神なのです。主は私達を神の子とする為に、十字架にかかって死に、復活して今も生きて働いています。そして、ご自身が「父よ」と呼び掛けたように、今は、誰でも「父よ」と神に呼び掛けて良いのだから呼びかけよとこの主の祈りによって教えています。