メッセージ(大谷孝志師)
主の求めに応じよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年10月6日
マタイ6:26-34 「主の求めに応じよう」 牧師 大谷 孝志

 今日の御言葉である主イエスの教えは、当時でもかなりユニークだったと思われます。主は徹底的に与えなさいと命じているからです。求める者には、誰にでも与えるということは、自分のものは何にもないと言う状態まで行ってしまう可能性があります。そんなことが出来るでしょうか。普通は出来ません。怖いです。それに、敵を愛しなさい。悪口を言う人を祝福するよう神に祈りなさいととの主の言葉を読んで、ハイと言えるでしょうか。愛せない相手だから敵なのです。自分に敵意や憎しみを持つと感じる人には近づきたくないし、憎らしいとは思っても、親切にしたい、助けて上げげたいとは思わないのが人間です。しかし、主を信じる者の生きる世界、主が支配している世界はそうではないと教えるのです。主は私達が生きている世界を変える為に世に来ました。神がこの世を御心にふさわしい世界にする為、御子イエスを世に与える為に遣わしたのです。そして主は十字架に掛かって死に、私達の罪を取り除き、神に喜ばれる者となる道を開きました。

 主は「あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい」と言います。敵を愛することは善を行うことなのです。それだけではありません。自分達を呪う者を祝福し、祈れと教えます。それが善いことだからです。私達は自分が相手の嫌がることをしても、自分が嫌がることをされると腹を立てます。そんな相手が自分のことを親身になって考えてくれていると感じると、嫌な気はしません。最初は疑って掛かりますが、相手が本気かもしれないと思うと、相手を見直さなければいけないかなと思ったりします。それで関係が改善される場合もあります。悪に悪をもって報いたくなるのは、実は悪魔の思うつぼなのです。それでは人間関係が壊れたままになるだけでなく、悪化していくからです。主は、人が互いに愛し合って、互いに支え合い、助け合って生きることを望んでいます。神の愛が互いを結び合う世界になることを願っています。その為には徹底して自分を相手に与えなさいと命じるのです。そこに悪魔に勝つ道があるからです。上着を奪い取る者には、下着をも拒むな、求める者には、誰にでも与えよ、奪われても取り返すな、と主は言います。取り返そうとすると闘いになりますが、与えたままだと闘いは起きません。自分のものに執着すると敵意が生じ、関係が壊れる方に進んでしまいます。主は「人からして貰いたいと望むとおりに、人にしなさい」と命じます。主は人のことより自分のことが一番大事になる私達の心の内をよく知っているからです。

 自分を愛してくれる者を愛する。善い事をしてくれる者達に善い事をする、消して貰うつもりで人に貸す。これは垣根の中でしている事で、人として当たり前の事をしているだけなのです。その垣根を越える時、人は自分を自分で守る生きか方から神に護って貰う生き方へと生き方を変えることが出来ます。自分の殻から出て神が支配する世界に入れるのです。そこには、自分中心、自分第一ではなく、相手の事を自分の事のように考えられる神に喜ばれる世界があります。

 主は私達が相手を自分のように大切にして生きて欲しいのです。そこに、主が私達を愛したように互いに愛し合う世界が生まれるからです。自分が自分の殻に閉じこもっていては不可能です。殻の中は罪の世界だからです。主はその世界から私達を引き出す為に、十字架に掛かって死んで下さいました。そして自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うことを求めています。そこに主の恵みと平安が備えられています。主の求めに応え、相手の為に生きられる人になりましょう。