メッセージ(大谷孝志師)

主の祈り(2)
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年10月13日
マタイ6:9-13「主の祈り(2)」  大谷孝志牧師

 主はこの祈りで、神と私達自身の為に祈るよう教えています。前半は神の為に、後半は私達の為に祈るよう教えます、ですから前半の祈りには「御(あなたの)」が付き、後半の祈りには「私」」が付いています。私達の祈りには「願い・感謝・執り成し」が含まれますが、この祈りには、感謝と取りなしがありません。主の祈りはルカ11章にもあります。そこで、主は弟子達に祈りについて教えて欲しいと頼まれて教えています。その時主は、祈りにおいて最も重要な「願い」だけに絞り、このように神に祈れと教えたからと思われます。

 主は神に願う時、まず神の事について願いなさいと教えます。それは、神の事について祈ることで、よりはっきりと心が神に向き、神に対して正しい姿勢を整えられるからです。なぜそれが必要かと言うと、私達が信じ、呼びかける神は、人格と意志を持つ方だからです。神は私達と同じ心を持つので、自分に正しく心を向けて祈る人を喜び、その願いを聞いて下さるのです。

 前半最初の祈りは、「御名を崇めさせ給え」です。「御名」は神の名です。神ご自身を指しています。「崇めさせ給え」は、聖書では「聖なるものとされますように」です。これは「清く保たれ、汚されないように」の意味です。神の為の祈りですが、神にそうなって欲しいと私達が願うから、自分でそうなって下さいと願っているのではありません。神の為に私達が「清く保たれるよう、汚されないようにしますから、その私達を助けて下さい、と神に願う祈りなのです。「御名が清く保たれるように」私達は何するのでしょう。一つは、私達が自分の言動を吟味し、信仰生活中での自身を律しようとしますから、神が正しい姿勢を保てるよう、私達を助けて下さいと願う祈りです。つまり、私達の言動により、神の御名が清く保たれるようにとの祈りです。神の為になる事を願い、御名が清く保たれるようにしても、弱さの故に汚す結果になる事をしてしまう私達を助け、正しい言動をさせて下さいという祈りです。

 この祈りのもう一つの意味は、私達が世の人々に対して主の証人としての務めを果たします。それによって、人々が主を信じることができるなら、世の人々によって主が無視されたり、軽く見られたりして、御名が汚されないようになります。ですから、信徒としてその務めを果たそうとする私達がその使命を果たせるように、私達を助けて下さいと願う祈りでもあるのです。

 第二の祈りは「御国を来たらせ給え」です。「御国」は神の国のことです。私達は、見える世界の中にある神が支配する世界、見えない御国に今生きています。それなのになぜ主は、「御国を来たらせ給え」と祈れと教えたのでしょう。それは、この世が神が愛し、祝福している神の国と私達に実感させてと切に願うことが必要だからです。その思いを神に示し、早く世の終わりを来たらせ、永遠の祝福を実感できる神の国を早くこの世に来させて下さいと願うよう主は教えたのです。この祈りは、自分達が生きている悪が支配し、罪に満ちているこの世界を、神の愛と恵みに満ちた世界に変えて下さい、その為に早く御国を実感させて下さいと、私達が神に切に願う祈りなのです。

 私達はこの世は見えない神が支配しているとは知っています。神が必要に応じて神の力と愛を世に差し込ませているので、私達は、神の国に生きる恵みを実感出来ています。神は、私達が求めなくても必要な事をしています。なのに、なぜこの祈りが必要なのでしょう。それはこの主の祈りの項目全てに言えることですが、神は私達が求めるのを待つからです。神の国に生きる恵みを実感させて下さいと祈る私達を神は喜ぶからです。そして祈る私達の信仰も成長します。こう祈ることによって更に、私達と神との関係が深く確かなものになっていくのです。主はそれを知るのでこう祈れと教えています。

私達はこの祈りで、世の終わりを来たらせ、新しい神の国を到来させてと願っていると自覚しなければなりません。何故ならこの祈りが実現し、御国が来る時、家族や知人が信徒になっていなければ滅ぼされてしまうからです。ですから、私達はこの祈りを「私達を主の証人とし、未信者の方々に遣わし、人々の救いの為に用いて下さい」との思いを込めて真剣に祈り続けましょう。

 次は前半最後の祈りです。この祈りは「御心の天になるごとく地にもなさせ給え」ですが「私の思いではなく、御心がなるようにして下さい」と祈った主のゲッセマネの祈りに通じるものがあります。御心の実現を求める祈りなので、自分の思いの実現を願う祈りではないからです。この祈りも、神頼みではなく、前の祈りと同様、そうなる為に私達を用いてとの思いを込めて願う祈りです。それにしても、私達人間には、天で行われる御心を知ることはできません。その私達に、主はなぜこう祈れと教えるのでしょうか。実は、私達はこの世に生きる中で、神は愛であり、完全であると信じられる具体的事実を経験しているからです。神は目には見え無くとも、私達は自分自身も、周囲にいる人々も目で見ることが出来ます。ですから、神がこの世で、全ての人にとって、最も良い事、必要で完全な事を行っていると知ることが来ます。勿論、善い人達も大勢います。でも私達が実際に感じているように、この世には利己主義的言動する人、自分さえ善ければ善いとする人や自分は自分、他人は他人と割り切っている人がいます。そういう人に直面すると、どきっとしたり、はっとしたり、時には悲しくなったり、怒りを感じたり,息苦しくなったりします。ですから、御心が行われる世界になれば、私達は真に幸いな生活がでます。目に見える世界も見えない神の愛と力が満ちる世界になれば、安心して生活できます。神はその世にして下さいます。主は私達が本気になって御心の実現を求めて祈るの待っています。神は私達が自分の全てを投げ出して神のものとなるのを求めているからです。私が真に幸いな者となる為に、こう祈ることが必要だから、こう願えと主は教えるのです。

「地にもなさせ給え」の「地」はこの世です。自己中心的で利己的な人間の罪と差別・戦争・殺人等の悪が、この世に御心が行われるのを妨げているからです。私達の求めに応えて主がこの世に御心が行う為には、神の愛と力を知る私達の祈りが必要なのです。罪にまみれ弱く愚かな私達でも祈れます。私達とこの世をこうしをて欲しいとの切なる願いを神に知って頂きましょう。神は私達の願いに応え、実現してくれる方と信じて主の祈りを祈りましょう。