メッセージ(大谷孝志師)

主の祈り(3)
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年10月20日
ルカ11:1-4「主の祈り(3)」  大谷孝志牧師

 今日は主の祈りの後半の三つの祈りを学びます。ここは私達の為の祈りで、日本語では「私達」は4つですが、ギリシア語では8つです。主が自分の事を自分の為に祈るように教えたからです。主はこの祈りを教える前に「祈る時、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけない。…あなたがたの天の父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っているから、こう祈りなさい」と教えています。ですから主は、天の父なる神に「私達に食べ物を与え」「負い目を赦して」「誘惑に遭わせず、悪から救って」と簡潔に祈れと教えたのです。主が、自分の事を自分の為に祈れと教えた祈りに使う動詞は全て二人称単数の命令形です。主語は動詞語尾で示されている「天にいます父なる神」です。主は、神に~をするよう命令せよと教えたのはありません。「して下さい」と神にお願いしなさいと教えたのです。自分の子が突然「一万円下さい」と言ったら、親はびっくりするでしょう。しかしそれが子にとって今日必要なもので、親に与えられるしかないものであるから頼んできた分かれば、「はい」と手渡すでしょう。主はここで、私達と神との関係において大切な事を教えています。それは、私達が親子のように自分が必要とする事について素直に神に願える関係にあることが、私達が神に喜ばれる者となる為に必要な事だからです。それによって、私達と神の関係が深く強い絆で結ばれることになり、それが私達自身とって必要だからです。ですから、私達が自分の口で一つ一つのことを願えと教えたのです。

 私達は「我らの日用の糧を今日も与え給え」と祈ります。私達は神に日常生活に必要なものを与えられて生きています。しかし、それが与えられるから幸いな人生を歩めるのではありません。私達の心が神に向かってしっかり繋がっていなければ、ルカ12:16-21の「愚かな金持ち」のように、物が十分でも幸せな人生を歩めるとは限らないからです。主は、この世で私達が生きる為に必要とするものを与えてと神に願うよう教えるのは、そうすることにより、必然的に私達の心が正しく神に向けられ、その私達を神は喜ぶからです。 それに、人は腹が空くと気力も鈍ります。必要な食事をすることで健康が維持されます。充実した日々を過ごす為には、日々の生活のリズムを整え、心身共に健康であることが大切です。その為に主は「今日もお与え下さい」と祈れと教えます。私達が必要なものを日々神に求め、日々与えられることによって、神をより身近に感じられる者になれます。神を身近に感じることが私達の信仰生活に大きく役立つのです。だから祈れと主が教えたのです。

 次に「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈ります。原文は「私達の負い目を私達に赦して下さい。私達も私達に負い目のある者を赦したように」と「私達に」が入ります。前半はよいのですが、後半は日本語として理解が難しい文章になるので「私達に」を省略し、私達の聖書も省略しています。更に、「主の祈り」では順序が逆になっていますが。これもその方が日本語としては分かり易いのこのようにしたと思われます。

 何故、主は「私達の負い目を私達に赦して」と最初に祈らせたのでしょう。「負い目」は借金等の当然支払わなければならないものです。私達は、自分が救われて、神に喜ばれる生き方をしたいと思い、どんなに努力しても罪を犯してしまいます。人は皆その負い目(罪)を神に対して持っています。その罪意識が自分を縛り、こんな自分では神に相応しくないと思い込ませ、気持ちを委縮させてしまうのです。自分を神から離させてしまい、悪魔を喜ばせてしまいます。私達をその罪意識から解放して下さいと願うよう、先ずこう祈れと主は教えたのです。それに続き、主は「私達も、私達に負い目のある人たちを赦したように」と祈るよう教えました。聖書では「私達も、私達に負い目のある人達を赦します」ですが、原文では、赦すは過去形で、「赦したように」です。神の赦しが私の相手への赦しの前提にはなっていません。私達が祈る主の祈りも、私達が自分に罪を犯す者を赦すごとく、赦したようにと言っています。そのように私達の罪を赦して欲しいと祈っているのです。

 私達は世に生きていると、身勝手な判断で私達を裁いたり、苦しめる人に出会います。主は、その人々を私達が赦しますから、私達の罪を赦して下さいと祈るようにと教えたのではありません。私達は、神には自分の罪を赦して欲しいと思っても、自分に害を与えた人を赦す気持ちになれないと、その人との関係は切れたままになってしまいます。それでは神の国に共に生きているとは言えません。主は、私達が互いに愛し合い、赦し合えるようにこの主の祈りを教えたのです。主の十字架によって贖われ、罪赦されている者として相手を見、接することが大切なのです。神は私達の祈りを聞いています。その時、神は私達の行いも見ているのです。私達は自分の祈りを神に聞いてもらいたいと思って祈ります。その為には、自分と相手の関係を整えている必要があるのです。そうは言っても、相手を赦さなければ自分が赦されないのではありません。互いに赦し合い、互いの心が真っ直ぐ神に、相手に向いていることが必要なのです。この思いと姿勢で祈る時、教会が神の国になります。私達が神の民の群れであり続けるよう、主はこの祈りを教えたのです。

 最後の祈りは「私達を試みに遭わせず、悪より救いだし給え」です。聖書とほぼ同じ言葉です。人は様々な衝動を感じ、自分さえ善ければ善いと思い、自分の欲望を満たそうとこの世に生きて、結果的に悪魔を喜ばせています。主は、その私達を知るからこう祈れと教えるのです。神に喜ばれるには、私達が自分の弱さを認め、神はこのような私でも悪いものから救うと信ましょう。神には私達を誘惑に遭わせないようにする力があります。神には出来ないことはありません。その事を信じつつ祈りましょう。神は助けてくれます。

 主は、神が神であることを先ず願いなさい。神に喜ばれる者として生きられるよう、私達の生きる糧、他者と共に生きる為に必要なもの、悪と罪が支配する世で生きる為に必要なものを与えて下さい祈れと教えました。最後は神を褒め称え、栄光を帰する言葉です。主の祈りは、いつどこでも祈れます。神はこの祈りを聞き、必要なものを与えると信じ、心から祈りましょう。この教会が主の体となり、私達が各部分となり、御栄えを現す群れとなります。