メッセージ(大谷孝志師)

人生の意味を知る
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年10月27日
伝道5:1-20「人生の意味を知る」  大谷孝志牧師

 この伝道者にとってと言うより、彼が生きる世界、時代において神は絶対的、生活に密着した存在でした。テレビで神社仏閣の祭りに関わる人々の姿を見ると生活や生き方に密着しています。今でも、ユダヤ教徒、イスラム教徒は宗教と生活が密着していますが、聖書を読むと、昔はそれ以上でした。

 今の私達は、聖書を読み、祈る時、それだけの切迫感を持っていないのではないでしょうか。少なくとも私自身はそうだと思います。その観点から、聖書を読み、神と人との関係を見つめる必要があります。この伝道者はここで、人は神と自分との絶対的違いを前提に物事を考えよと教えます。私達も、神に助けを求めますが、崖から落ち、木に掴まって助けを求める時、必死になって助けを求めるより、大声を上げて人に助けを求めたり、自分で何とかしようと必死になるのではないでしょうか。また、借入金の返済時期が迫り、不渡りが出そうになった時、金策に走りはしても、祈って神の助けを待とうとはしないのではないでしょうか。「人事を尽くして天命を待つ」とは言いますが、どちらかというと消極的求めにとどまるのが現実だと思います。

 彼は「神の宮に行く時は、自分の足に気をつけよ」と言います。礼拝に来るということは神に会いに来ることなのです。心の中まで知る神の前に来るので、気を引き締めて神を礼拝しなさいと彼は教えています。「近くに行って聞く」とは、漫然とではなく、御言葉を聞こう、御心を知ろうと意識して主を礼拝することです。時間を犠牲にし、献金しているから主に喜ばれていると勘違いしてはいけないのです。形式的に礼拝するだけでは、どんなに自分が犠牲を払っても神はに勝ると彼は言う。むしろ悪を行っているのに気付けと彼は言います。私達が礼拝する神は物言わぬ偶像ではありません。礼拝は神との人格的交わりの時なのです。彼が彼の人生の大前提なのです。しかし、こう警告するのは、周囲の人々も彼のような信仰者ではなかったからです。その人々への警告は現代に生きる私達への警告でもあります。主イエスを信じ、神の子とされていても地にいます。人としての限界を持っているのです。

 私達も、主を信じ、救われていても、この世に生きていると様々な悩みや苦しみを経験します。仕事が多いのは良いことに思えますが、仕事が魔力を持つことがあり、自分や相手の本来の姿を見失わせることがあります。自分の弱さに引きずられると、相手を言葉で圧倒し、安心しようとしてしまいます。人間関係だけでなく神との関係でも勘違いすることがあります。神を自分の為の神と思い込んでしまうのです。だから誓願を立てたら速やかに果たせ、誓ったことは果たせ、果たさないなら誓わない方がよいと言います。神に常に誠実であれば良いのです。全ては神の支配下にあるからです。その事実に立っての言動をすれば良いと彼は言います。「夢が多い」のは良いことではありません。自分の思い、計画に心を奪われ、全ては神の計画であることを忘れ、神を否定してしまうからです。神は怒り、その人の全言動を実り無きものとします。自分が自分である為に、彼はただ、神を恐れよと言います。

 彼にとって、そして私達全てにとってもこれが信仰の原点なのです。主は恐るべき方です。主は私達を愛し、今日も礼拝に招いています。主の豊かな祝福に与っている私達は、主を信じるだけで安心してはいけないのです。主は全知全能の神として私達の全てを支配し、御心のままに与え、取り去る方なのです。主は私達の心の内まで知っています。主を恐れ、聖書を通して主は、私達がなすべき事を示しています。主を恐れる私達を主が喜ぶと心に決め、全面的に主に服従しましょう。そうすれば私達は真の平安を得られます。

 伝道者は、神がこの世を絶対者として支配しているのに、世には様々な矛盾があり、人の権利と正義が蹂躙されている現実を見ています。神が、自分中心に物事を考える人間の手に世界を委ねているからです。人は、世のこの現実の中でどうしたら幸せに生きられるかを、先ず見極めようとしています。

 上から下までが互いに庇い合う社会の中で、貧しい人が虐げられ、権利と正義が踏みにじられても、自分の利益を第一にする人間に神が全てを任せているから仕方がないと彼は言います。勿論、神は人に知恵を与えています。例え多くの不正が横行しても、自分達が少しでも良き安心できる社会に生きられるようにと考え、努力をしているからです。9節はその一つの例えです。農地を耕されるようにして、しっかりとした農業政策を実施し、国力を高める王がいるなら、人の努力と知恵で国が安定し、平和になると彼は言います。

 しかし、人を幸いにするものは世にはないのです。人が幸いを求めて得ようとする身分の高さも富も人を幸せにはしません。富は人を常に飢餓状態に追い込みます。食の多少も人の幸いを決めません。貴族や富裕者は労働者を下に見ました。しかし労働し労苦する者が不幸せなのではありません。人は働くからこそ心地よい眠りを得て幸いになれると彼は言います。富は安定した将来を保証するものでもありません。富を得て一生を安楽に過ごそうとしてもそれは虚しいだけです。富を得ても簡単に失うから、と彼は言います。

 人は、母の胎から出て来たように裸で何一つ持たずに来た所に帰るしかありません。それでも、人は労苦を惜しまず、自分を幸いにしようとします。時に苛立ち、病気になり、激しい怒りを発しながら懸命に生きても、痛ましい禍としか思えない結果になるだけなのだ。闇の中で一生を過ごすようなもので、その労苦は何の益にもならず、その人生は虚しいだけと彼は言います。

 しかし彼は、人は良くて、好ましい生き方が出来ると言います。人生は神が人に与えたものなのです。確かに人は労苦しますが、その間に良き物を楽しみ、食べたり飲んだりできます。これこそが人にとっての幸せで、神が人に与える人が受ける分です。労苦や富の大小は人の幸せの計りにはならないし、将来を決めるものではありません。労苦は避けたい嫌なもの。財産も要らぬ心配を掛けます。しかし、人は生きていればそれを楽しめます。神がそれを許し、各自が自分が受ける分としてそれを喜ぶようにしているからです。それらを神の賜物として受ければ良いのです。そうすれば、人は過去の事をぐずぐずと思い出して考えずに、人生を前向きに捉え、労苦にも良い面を見出し楽しめます。何故なら、神がそのような人の心を喜びで満たすからです。