メッセージ(大谷孝志師)

行いに信仰が現れる
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年11月3日
マルコ12:41-44「行いに信仰が現れる」  大谷孝志牧師

 ユダヤ人にとって、献金は私達が考える以上に非常に大きな意味を持っていました。私達は週に1度礼拝に出席して献金します。でも、私は子供の頃、神社に行きました。。意味も分からず、親に言われた通り、鐘を鳴らして手を合わせ、賽銭を箱に入れました。イスラエルの人々も神殿で礼拝する時、献金しました。彼らにとって、献金は自分の信仰を人々に示す機会でもあったからです。私も牧師に、献金は自分を献げる思いで捧げよと教えられました。

 さてイエスは、美しの門から神殿に入りました。回廊で囲まれた神殿の中には幾つもの内庭があって、門を入ってすぐの所に婦人の庭がありました。その壁にラッパの形をした十三の受け口がある献金箱が置いてありました。主がその向かい側に座り、人々がお金を献金箱に投げ入れるのを見ていた時に起きた出来事がここに記されています。主が見ていた理由は書かれていません。主は力ある方なのです。女性が投げ入れたのがレプタ銅貨二枚だったこと、それが生活費全てだったことも、ヨハネ1章のナタナエルの時のように見抜いたのです。主はそのような方として今も共にいて、私達の言動も心の内も見ています。私達はその主を信じ、礼拝し、生活しているのです。

 さて、彼女が献げたレプタは当時の最小通貨です。しかもそれが持っていた全てで、生きる手立ての全てだったのです。聖書は最初に「多くの金持ちがたくさん投げ入れていた」と記しています。たくさん献金した人は神が豊かに祝福した人であり、神に喜ばれた人です。彼らは、ルカ18章のパリサイ人のようにその事を誇っていません。貧しいやもめを蔑んでもいません。ですから、彼らは義と認められなかったとは言われていません。ただ献げた事実だけが記されています。神から見れば、その人が献げた額が、一タラントでも1ミナでも1デナリでも1アサリオンでも、この女性のようにレプタ二枚でも、皆同じなのです。皆神に喜ばれる人で区別はないのです。それだけではありません。主はこの貧しいやもめの行為を見て、わざわざ弟子達を呼んで教えました。「まことにあなたがたに言う」と言ったのは、主がこれから言う事は、彼らにとって非常に大切な事だからです。これは私達にとっても大切な事です。弟子達も献金をしたし、私達も聖日礼拝で礼拝献金や月定献金、様々な感謝献金を献げています。それらの献金をどのような思いで献げたら良いのかを、主はやもめと他の人々との対比によって教えています。主は、献金する時、人はこの献金が自分と神の関係を表していること、自分にとって神はどんな方かを表明していることを自覚して献げるべきと教えたのです。

主は、レプタ銅貨二枚を献金箱に投げ入れた寡婦を褒めました。彼女が、乏しい中から持っているもの全てを、生きる手立ての全てを投げ入れたからです。人々は、持っているものの中から、生きる手立ての分を除き、余った分を献げているけれど、献金はそうすべきでないと主は教えたのです。当時、労働者日給は1デナリ、今、8000円とすれば2レプタは125円。僅かな額です。他人から見れば僅かな額でも、主は彼女が誰よりも多くを入れたと言います。

 主は、彼女が誰よりも多く入れたから褒めたのではありません。彼女の心の内を見て知ったから褒めたのです。彼女はこの金だけではこれから生きていけないと思い、この額では何の助けにもならないから、献金箱に投げ入れたのでしょうか。そうではありません。彼女は何故神殿に来たのでしょう。イスラエルの神が礼拝すべき真の神と信じるからです。彼女は、神が護ってくれると信じるから生きる手立ての全てを献げたのです。神が彼女にその保証を与えたからではありません。ただ彼女が神を信じたからです。レプタ二枚でも彼女にとっては貴重なお金です。他人には彼女が何故そんな事をしたのか分からなかったでしょう。彼女も具体的に説明出来なかったでしょう。 しかし、主は彼女のその信仰を褒めたのです。勿論聖書は、献金のことだけを問題にしているのではありません。聖書は、神をどう信じ、どう生きるかを私達に考えさせているのです。私達は礼拝や集会に出る為に教会に来ます。他に用事があった場合どうしますか。その用事と教会に来ることを比べて、教会の方が大事だから来るのではないでしょうか。彼女は僅かかもしれないが、生きる手立ての物をそのお金で買うことができたはずです。しかしそれを買うことではなく、その金を献金することを選んだのです。比較検討の結果、嫌忌することを選んだのではなく、二者択一の決断の結果、献金したのです。彼女は神に全てを委ね、任せることを選んだのです。ですから、主は彼女の行為を褒め、その行為の理由を弟子達に教えたのです。

 礼拝出席についても同じ事が言えます。主は誰より多く礼拝に出席しているからといって、その理由でその人を褒めません。また、肉体的、精神的に礼拝に出席できない状態なのに、無理矢理来たとします。主は、だからといってその人を褒めません。主はその人の心の内を、その人の信仰を見るからです。もちろん、主はその人が礼拝に来たことを喜んでいます。でも、動機、理由が問題なのです。礼拝に来れば主が喜ぶからと思って礼拝に来ただけでは、その人にとって一番大事のなものを得られないことになるからです。なぜなら、主が一番喜ぶことはそれではないから、主に褒められないと今日の聖書は教えています。何が問題なのでしょう。その人が、主を第一に考えて生活しているかどうかなのです。他にも大事なことはあるが、主を礼拝することが何よりも大事だから来たかどうかなのです。旧約聖書には「主は、妬みの神である」とあります。これは単なる嫉妬ではありません。神は相手を激しく愛する故に、相手が心を反らした場合に相手を許しておかない感情の両面を持つことを表しています。新共同訳では「熱情の神」と訳しています。彼女は、生きる手立てとなるものより、神を選んだのです。だから主は彼女を褒めたのです。礼拝に来ることによって失うものがあっても、全てを主に委ね、任せる程に主を愛することを、主は私達に求めていると聖書は教えます。

 この聖書のメッセージをしっかり心に留めましょう。ヤコブが言うように、信仰に行いが伴わないなら、それだけでは死んだものになってしまいます。この女性のように、行いによって、神を礼拝することを第一にしている自分の信仰を、自分の行動によって表し、主に褒められる私達になりましょう。