メッセージ(大谷孝志師)
恐るべき方を頼れば安心
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年11月3日
ルカ12:4-7 「恐るべき方を頼れば安心」 牧師 大谷 孝志

 今はキリスト者だからといって迫害されることはありません。しかし、新約聖書が書かれた時代には、ユダヤ人とローマ人から激しい迫害を受けていました。使徒の働きに書かれている迫害は、ペテロやパウロが宣べ伝える福音、特に自分達が十字架につけて殺したイエス・キリストを神の子、救い主と信じることを、神を冒涜すると考えたユダヤ人達によるものでした。また、ローマ人も登場しますが、彼らの訴えによる町の混乱を恐れたローマの官憲によるものでした。その後、ローマの各地で皇帝礼拝を拒否するキリスト者へのローマ人による激しい迫害が行われました。イエスの時にはそれらの激しい迫害はまだありませんでした。

 12章の主の言葉は、将来のキリスト者が、直面する迫害に屈することなく、正しい信仰から引き離そうとする力に立ち向かえるよう、対処する道を教えた御言葉だと言えます。日本でも江戸時代にキリスト者に対して激しい迫害が行われました。遠浅の海に立てた柱にくくりつけたり、逆さにつるして耳に穴を開け、徐々に失血させたり、井戸に放り込んだりして、ゆっくりと恐怖と苦しみを味合わせながら殺したのです。それらは、キリスト信仰を捨てないとこうなるぞという見せしめの効果を狙ったものでもありました。しかし、多くのキリスト者は、喜んで死を受け入れて、天に召されていきました。彼らは「からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナ(地獄・永遠の滅びの場所)に投げ込む権威を持つ方を恐れなさい。」との主の御言葉を守って生きていたからです。キリスト教が公認される以前のローマ社会でも、江戸時代でも、時の権力者はキリスト者を徹底的に迫害しました。しかし人々は人を恐れず、神を、イエス・キリストの父なる神を恐れたのです。その恐れは単なる恐怖ではありません。神は全ての上に立つ方、全てを支配する方で、体も霊もその方のものだからと知るから恐れ、だからこそ全面的に信頼し、肉体の死を恐れず、日々の生活の中でどんな危機が訪れようとも、キリスト者として日々安心して生活できたのです。

 主は一レプタもしない一羽の雀でも大切にし、神は心に掛けていると言います。それどころか、神は髪の毛さえも数えているのだから何者をも恐れる必要はないのです。だから人にどんなに脅されようとも、人を恐れる必要はないのです。神を恐れれば良いのです。しかし肉体の死の恐怖にさらされた時、その恐怖に負けて三度主との関係を否定したペテロのように、主を知らないと言ってしまう弱さを人が持つことを知っています。主は振り向いてペテロを見つめ、彼は主の言葉を思い出し、外に出て行き、激しく泣きました。私達は聖霊が与えられています。どんな状況に置かれても聖霊が私達を助け、主に御言葉を思い出させ、正しい道に導き、キリスト者として生きさせて下さるのです。主は「人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行った時、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくて良いのです。言うべきことはその時に聖霊が教えてくださるからです」と言います。心に御言葉が響き、従うべき御心が示されるのを待てば良いのです。人の脅迫を恐れず、たましいを永遠に滅ぼす方を恐れるしか私達に道はありません。神を恐れる時、私達は神の国にいます。この世のどこに、どんな状況の中にいても神に信頼しましょう。神は私達を愛しています。真に恐るべき方、決定権を持つ方である神に頼り、安心して世に生きていきましょう。