メッセージ(大谷孝志師)

真の神に立ち帰る
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年11月10日
ガラテヤ3:19-29「真の神に立ち帰る」  大谷孝志牧師

 パウロはこの手紙で、人は「律法の行いによっては救われず、信仰によってのみ救われる」とくどいほど繰り返します。彼はそれを決して譲りません。それが彼らがキリスト者として生きていく上で一番大切だからです。ガラテヤの諸教会の人々は、主イエスを信じれば救われると信じていました。そうパウロに教えられたからです。しかし、当時のエルサレム教会は世界中の教会の中心的存在でした。その教会の主だった人達である使徒達、主イエスの弟達は、幼い頃から神様に喜ばれるには律法を守ることですと教えられ、ユダヤ教徒として育ってきた人達です。勿論、主イエスを信じれば救われるのは大前提ですが、ユダヤ教の影響が強く残っていたのです。ですから、律法を守らなくても救われると取られるパウロの教えは大きな抵抗に遭いました。

 エルサレム教会の人達は、人の力を重視させ、神にのみ頼らせないようにしてることに気付かなかったのです。それが御心ではないことは明らかです。ですからパウロは、主の御心は本当はこうなのですと懸命に伝えたのです。主イエスは十字架に掛かって死んだが、復活し今も生きている。罪を許して頂く為に、悔い改めてイエス・キリストの名によってバプテスマを受けるなら、救われると信じれば良いと教えました。それが主の御心だからです。彼は、ピリピの牢で看守に、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。彼と家族全員はバプテスマを受けて救われました。彼らはただ信仰によって救われたのです。ガラテヤ諸教会の人々も「ただ主イエスを信じれば救われる」との福音を信じて救われました。でも、エルサレム教会から来た人達がそれだけでは駄目で律法を守らなければ救われないと教えると、その方が神に喜ばれているかどうかが分かり易いので、その方が正しいと思い、彼が伝えた福音を捨ててしまったのです。

 律法自体は決して悪いものではありません。人は神の御心が分からないので、自分の生き方が罪かどうかが分からなかったからです。ですから、神は律法という規則を与え、神の民としての正しい生き方の基準を示したのです。しかし、人は自分の力ではその律法を守れませんでした。だから、神は人がそのままで救われる道を御子イエスの十字架によって開いたのです。自分が罪人だと認め、悔い改めてバプテスマを受ければ人は救われるのです。だから律法は、イエスが世に来て、新しい戒めを与える時までのものだと彼は言います。律法は何が罪かを示すものなので、結果として人を罪の元に閉じ込めてしまうからです。しかし、福音は違います。新しい主の戒めを守れば、神に喜ばれる人になれますという知らせです。福音は「主が私達を愛したように互いに愛し合いなさい」という戒めではあります。そうであっても、この戒めは、律法により罪の世界に閉じ込められていた全ての人を愛と赦しの世界に解放する主の愛に基づく戒めです。人は自分の力だけでは神に喜ばれる人になれません。主の愛という手本が必要です。私達の内に与えられた聖霊が知恵と力を与え、主の愛の道を歩ませてくれます。だから福音なのです。

 ガラテヤ諸教会の人々は、天地創造の真の神を知らなかったし、イエスが自分達の為に十字架に掛かって死んだことをも知りませんでした。自分達が罪人だとは思ってもみなかったのです。パウロは彼らに、真の神を、彼らが罪人であると知らせました。そして、自分の罪を悔い改めて、イエスを主と信じてバプテスマを受けるなら、罪を赦され、神の祝福を受け、恵みと平安が与えられると知らせたのです。彼らはその福音を信じました。そしてその主イエスを信じて生きていたのに、エルサレムから来た人達の教えに惑わされ、パウロの福音を拒否し、神に背を向け、悪魔を喜ばせる結果になったのです。彼はその彼らを、主に立ち返らそうと必死にこの手紙で書いています。

 パウロは彼らに、彼が伝えた福音から今は離れていても、イエスの方では、彼らを見放していないと伝えます。パウロは彼らが今、律法によって神に喜ばれると信じる世界にいるが、主イエスを信じるだけで神の恵みを豊かに頂ける世界に戻れると知らせたのです。神は今のままの彼らであっても、彼らを愛しているからです。パウロが伝えた福音を信じた彼らは皆、既にキリスト・イエスにあって神の子供であり、その資格は今も失われていないのです。つまり「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着た」と3:27にありますが、キリストを着ているという事実は、自分がどうあろうとも決して変わっていない、神の愛は注がれたままと彼らに教えます。

 パウロは、ガラテヤ諸教会の人々が、自分達は神に背を向け、離れているとは思っていないどころか、律法を守ることによって神に喜ばれる者となると信じて努力しているのを知っています。だからこそ、彼らを神に立ち帰らさなければならないし、そう出来ると信じています。彼らが自分達の努力は無駄な努力だと気付けば良いからです。なぜなら、彼らは他の神を信じているのではありません。自分達が信じる神の御心を知らないだけだからです。彼らは律法を守らなければ神に喜ばれないと教える人々に流されてしまい、そうとは知らず、神に背いているだけです。神の素晴らしい恵みの世界に自分達がいるのに、それが分からなくなっていただけだからです。それが残念で堪らないから、パウロは彼らに、主を信じ、神の祝福を受けて生きる素晴らしさを教え、彼らを福音を信じた初心に立ち帰らそうとしているのです。

 パウロは、バプテスマを受けた人はキリストを着たと言います。ですからキリスト者は、キリストという服に包まれています。キリスト者になった時から、その人はキリストの愛と恵みに包まれているのです。素晴らしいことです。彼は、彼らに最初の信仰に立ち戻り、そのような自分であることに気付いて欲しいのです。その信仰に生きるともっと良いことがあります。人と人との差別がなくなるからです。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人、男と女は当時全く違い、一緒と言えない関係にありました。それがキリスト・イエスを信じる同士だと分かると一つになれるのです。更に神の子どもとしての豊かな祝福を受けられます。神の国に生き、神が全てを知り、支配する世界に生きているので、全てを自分が受ける分として、神が自分に与えた賜物として感謝して受けることができ、喜びに満たされて生きられるからです。