メッセージ(大谷孝志師)

主は全てを知る方
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年11月17日
マルコ14:1-9「主は全てを知る方」  大谷孝志牧師

 私達は主イエスを信じて、或いはまだ信じられないけれども、何か必要を感じて、教会に来ています。私達が生きていく為には、必要な事は沢山あります。もちろん、人によって、生きている場所や時、状況によってそれは異なります。でも、その時、その場できる事は一つだけです。誰でもその一つの事を選んで、それを行いながら生きています。今日の箇所はナルドの香油を主イエスに注いだ女性の話です。彼女も自分に今できる事を選んで実行したのです。この時がどんな時かというと、ユダヤの指導者達である祭司長達と律法学者達が、主イエスを騙して捕らえ、殺す為の方法を探した時でした。彼女のこの行為は、結果的に主の葬りの備えになり、主に褒められました。

 この記事は4つの福音書にあります。マタイでは憤ったのが弟子達である以外はマルコと同じです。ルカではこの位置になく、公生涯と呼ばれる主の伝道活動の初期の記事の中に似た記事があります。そこでは彼女の行為も主の反応も違います。ヨハネの内容はほぼ同じですが、彼女はイエスが死人の中から甦らせたラザロの二人の妹マルタとマリアの内のマリアと記します。

 主イエスの一行がエルサレム近くの町ベタニヤのシモンの家で食事をしていた時、ある女性が入って来ました。この時代、女性が男性の集まりや食事の席に入って来ることも異例でしたが、食前ではなく、食事中なのは極めて異例なことでした。しかし、主も、同席の人々も受け入れれています。主は当時蔑視されていた女性や子供を排除せず、仲間として受け入れる方である事、主と共にいるなら、人は差別意識から解放される事を暗示しています。

 彼女は持参した非常に高価なナルド油が入った壺を割り、主の頭に注ぎました。それを見て憤った人をマタイは弟子達、ヨハネはイスカリオテのユダと伝えています。人々が憤慨したのは、彼女が無駄な事をしたと考えたからです。彼らは彼女を厳しく責めました。彼女が、300デナリという当時の労働者年収に相当する額以上に売って、得た金を貧しい人達に施せば、神に喜ばれるのに、その機会を捨てたと思ったからです。ユダヤ教は、貧しい人々への配慮を非常に重視し、施しを神に喜ばれる事として非常に高く評価したのです。主と共にいた人々は、神に喜ばれる貧しい人々への施しを事を大事にしていたので、人事とは思えず彼女を厳しく責めたのです。しかし主は「彼女を、するままにさせておきなさい。…私の為に良い事をしたのです」と彼らをとがめました。私達も自分が正しいと思ってした事を、それはおかしい、間違っていると他人に言われる時があります。心の内は他人には分からないからです。彼女が主に香油を注いだのは、主が言ったような意図ではなかったと思います。彼女はただ、主の為に自分ができる最高の事をしたかっただけです。でも、人々はこうすれば神に喜ばれる筈、だからそうすべきと考え、そうしなかった彼女を厳しく責めたのです。彼女の行為を自分達の基準に当て嵌め、彼女は間違いを犯したと決め付けたのです。私達は他人の行為も自分の行為も善悪を自分では決められないと知り、神の判断に任せましょう。

 神は全てを知る方なのです。ですから、神の為に自分に出来る最善だと思う事をすれば良いと、今日の箇所を通して教えられます。神はその人の心を見抜き、褒めてくれるからです。しかし、ナルドの香油を主イエスの頭に注いだのを見た人々は、こんな無駄遣いをしてと彼女を厳しく責めてしまいました。彼女は主に喜ばれたいと思い、自分に出来る最善の事をしたのです。彼女にとっては決して無駄遣いではありません。私達も主に喜ばれる生活をしたいと思っています。主に嫌われよう、悲しませようと思って生きている人はいないと思います。しかし最善の行為をしたいと思っても、様々な抵抗が心の内に生じてしまうのが私達です。パウロが言うように、したいと思う善が出来ず、したくない悪を行ってしまうのが人間だからです。

 聖書はこの記事を通して、私達にも出来ると教えています。彼女は先日のレプタ銅貨二枚が生きる手立ての全てであった女性と違います。年収に相当する額の金を持ち、ナルドの香油を購入でき、それを自分の思いのままに使えたのです。香油を購入せず、他の物を購入する事も、金のまま保持する事も彼女には出来た筈でした。ヨハネは彼女をマルタの妹マリアと教えます。ルカ10章で主は姉のマルタに「必要な事は一つだけ。マリアはその良い方を選んだ」と言いました。私達はしたい、すべきと思う事が幾つもあります。どれを選ぶかはその人の自由です。主の接待の為に心を配り、忙しく立ち回る姉を見て、申し訳ないと思ったかもしれません。でも主の側にいて話を聞く事を選び、そして今、ナルドの香油を主に注ぐ事を彼女は選んだのです。

 彼女は、主に喜ばれる事を第一に考え、その為に出来る事は何かを考え、様々な選択肢の中からこれを選び、実行しました。主はこれをご自分の葬りの為と喜び褒めたのです。私達は主に喜ばれる事をしたいとは思っても、これがそうだと分からないことが多いのではと思います。人には御心を知ることができないからです。しかし今日の箇所は、私達も出来ると教えています。彼女がした事を、最善で今最も必要な行為なのですと主が褒めたからです。何故御心に適ったのでしょう。確かに、高価な香油を主に注ぎ掛けたのは、見ていた人にすれば、それは最善で、今必要な行為とは思えなかったのです。彼女自身も、見た人は無駄遣いと思うかもしれないと思ったかもしれません。また、主に褒められると期待する気持ちが勝ったからできたのでもないでしょう。彼女は主に喜ばれる事を第一に考え、これが主に喜ばれる事だと思ったからしただけなのです。人は、主の御心を知ることは出来ないが、主は私達の心の内を見抜く方です。私達も彼女のようにこれは主に喜ばれる事、御前に正しい事だと思うことをすれば良いのです。最後に、ロマ11:33-36を読みます(略)。パウロは、私達はこのような神を信じていると教えています。私達は、主の為に自分の出来ると思う正しい事、主に喜ばれる事をすれば良いのです。彼は11:36で「全てのものが神から発し、神によって成り、神に至る」と言いました。私達しようとするものも、主から発したものなのです。主が助け支え、完成すると信じましょう。主は全てを知る方です。私達の心内を知っています。その主に全てを委ねて、主の為に出来る事をしましょう。