メッセージ(大谷孝志師)

真実を知り得ないから
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年11月24日
伝道者 6:1-12「真実を知り得ないから」  大谷孝志牧師

 今月は伝道者の書6章を通して御言葉を学びます。この伝道者は日の下、つまり私達が住む世界には、人を大きく支配している不幸があると言います。彼は5章で「神は、全ての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これが神の賜物である」と言いました。しかし今日の箇所では逆です。「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神はそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ」と言います。私達もこの世にはこのような事が起きることがあると知っています。彼はこの書で人の幸いと不幸を見極めようとしています。しかし現実に起きている事とは分かっても、真実は人には分かりません。ですから、「これは良いと見たこと、好ましいこと」、「これは空しいこと、それは悪しき病だ」としか彼には言えないのです。それが人の限界であり、信仰者の限界でもあります。確かに彼は真の神を信じています。この世で起きている事は、全て神が行っていると彼は信じています。神が「与え」「許さず」「される」と言う彼の言葉に表れているからです。でも、彼が現実にそうとしか思えない体験をしたから、そう信じているだけなのです。

 伝道者が言うように、富と財と誉れを得、望むものを全て手に入れたとしたら、人はこれ以上の幸いはないと思うでしょう。しかし、そのような人の中にも苦しんでる人がいるのが現実です。何故そんな事が起きるのでしょう。神が意のままに与え、奪うから、それも見ず知らずの人に与えるからです。彼は、人の幸せは自分の行いの善悪によって決まらず、ただ神の思いのままに翻弄さていると見ています。彼にすれば、全ての人にとって、人生は自分の為には何もなし得ないもので、空しく、悪しき病いとしか言えないのです。

 次に伝道者は、多くの子を持ち、長寿を全うした人を例に挙げて教えます。彼が自分の財産に満足できず、墓に葬られなかったら、空しさの中に生まれ、闇に覆われ、光も見ず、何も知らない死産の子の方がましと言います。この伝道者の死生観は、旧約のヨブのものに似ています。しかし死はヨブが考えるような悲劇的で恐ろしい場所ではありません。伝道者は、どんなに長生きをし、良き物に溢れた人生を過ごしても、その人生に満足できなかったら、死産の子の方が、その人より幸せだと言うだけです。死は人生の労苦の結果と無関係に訪れ、賢者も愚者も、身分の高い者も低い者も、富と財を持つ者も持たない者も、労苦の結果に満足できた者もできなかった者も、皆等しく死ぬからです。ですから彼にとって、死は絶望ではなく、悩み、患い、怒りから開放される安らかな状態なのです。勿論、死産の子の方が例に挙げた人より安らかだと言うのは、比較の問題で、その子が永遠の命を頂き、神と共に生きられると言うのではありません。彼の関心は、この世で人がどうしたら幸いに生きられるかにあります。人はこの世の見えるもの、或いは形の無いもので、幸いを得ようとしますが、思うようには生きられないのが現実です。

 人が自分を優先し、一番大事にしてしまい、人間関係の中で葛藤や闘いが生じるからです。人は意識と苦悩が密接に結びついています。ですから生きている限り、そこから生じる苦悩から逃れられないのです。だからこそ彼は、意識を無くす死以外に救済と休息はないと考えるのです。そして生きている限りは人生の労苦の結果を楽しみ、喜んで生きる以外にないと言ったのです。

 そして彼は、人の上に重くのしかかっている悪しき事を具体的に挙げていきます。人は生きる為には食べ物が必要なので、その為に労苦します。しかし、労働の結果が幸福の基盤にはなり得ないと見抜きます。食欲は決して満たされず、労苦は常に人の上にのしかかり続けます。それに財産を蓄積しても、名声が上がっても、真の幸福は得られません。簡単に消える儚いものだからです。知恵有る者が、自分は愚者よりこの点で勝っていると言える確かなものもありません。人の知恵は絶対的なものではないからです。それに人生は何が起きるか分からず、今の幸せが今後の平穏な生活を保証しないからです。

 彼は分別があるけれども貧しい人についても言います。例え貧しくてもどう生きたら良いかを知る人は幸いと考える人は多いのは事実でしょう。しかし彼は、本当かと疑問を投げ掛けます。この知恵も。、世では相対的なものに過ぎないし、人によっても評価は異なるからです。更に、人の欲望には際限がなく、妄想はどんどん膨らみます。ですからそれに流されず、しっかりと目で見たことで判断する方が良いのです。食べ物を豊かに持っている、自分が知者だと思う、自分は貧しいが人の道は弁えていると思っても、自分は欲望を暴走させず、現実をしかりと見つめ自制できると思っていても、それらも全て空しく風を追うようなものなのです。何故なら、その真の姿は誰もが持つ貪欲です。際限なく不安、不満を掻き立てるだけに過ぎないからです。

 人は神の前に無力な自分なのに、自立できる存在であることを自分の力で確かめようとします。それは無駄な足掻きに過ぎないと言います。「存在するようになった」は、神に創造された、「名が付けられた」は神の支配下にあることを意味します。「人間(アダム)であることも知られている」とは、「人は土で造られ土に帰る」という現実に気付かせる為です。神は人より絶対的に強い方、絶対者なのです。ですから神は人の訴えによって御心を変えません。人は神と言い争うことなどできないのです。確かに主も、願い求めれば神は叶えると教えています。しかし、人は神と言い争っても無駄なのです。神は自分が欲する事を自由に行う方だからです。人は無意識に自分の真実を神に認めてもらおうとしてしまいます。でもその為に人が多く語れば語る程空しさを増すだけだと彼は言います。人は神に依存する以外に生きられない儚く弱い存在と自分を認めることが大切なのです。人は、幸福は何かを知ることはできます。だから求めます。でも自力では得られません。人は無駄と知らず幸福を追い求めている。でも幸福は神が与えるものと知れと彼は教えます。人は人生の究極的目標も確固たる意味も知り得ません。しかし、人の努力が空しいのであって、全てが空しいのではありません。全ては神のなさる事なのです。ですから、神の御業に目を留めればよいと7章で彼は教えています。