メッセージ(大谷孝志師)

神の子とされた私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年12月1日
ガラテヤ4:1-7「神の子とされた私達」  大谷孝志牧師

 いよいよクリスマスの月になりました。教会暦では、クリスマスの四週間前の聖日を待降節第一聖日と呼び、順に第二、第三聖日と呼ます。しかし次が待降節第四聖日かというと、殆どの教会では、25日がクリスマスである年を除いて、第四聖日にクリスマス礼拝をし、主の御降誕を祝います。イースターとペンテコステは必ず日曜ですが、クリスマスは25日と決まっているので平日が多いからです。一人でも多くの人が主イエスの御降誕を共に祝えるようにと、クリスマス直前の聖日にクリスマス礼拝を守る教会が殆どだからです。というのは、12月25日に主が生まれたと聖書には書いてないからです。主の降誕を祝う日がクリスマスなのです。今年は22日にクリスマス礼拝をしますが、24日の燭火礼拝の日もクリスマスです。

 クリスマスの意味を知る為に、パウロが何を伝えたいかを学びましょう。彼は主が約二千年前に世に生まれたのは、「時が満ちて,神はご自分の御子を女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされ」たからだと言います。彼はまず、主がこのようにして生まれたのですと教えています。「時が満ちて」と言いますが、単に、その時になったからということではありません。その時の為に神が準備していたが、その準備が満了したから主イエスが生まれたのだと教えます。主が生まれるのは神の計画だったのです。と言うのは、神は人を神と話が出来る、人格的交わりが出来る特別な存在として造りました。

 人は神にとって家族、それも我が子のような存在でした。しかし最初の人、アダムとエバが罪を犯し、エデンの園を追放されました。親でもなければ子でもなくなったのかと言えば、そうではありません。人間はいわば放蕩息子のようになったのですが、神は我が子として関わり続けたのです。これが、旧約の時代です。神はその不自然な関係を修復させたいと思っていました。

 その為には人が神を愛し、人が互いに愛し合い、平和に共に生きるようにならなければなりません。本当の意味で神の子供になることです。神は人を御自分に相応しい者として造り、自由を与え、自分の意思によって神と共に生きるようにしたのです。しかし人はその自由を正しく用いられず、自分の力では完全な者、神に喜ばれ、受け入れられる生き方ができなかったのです。それでも主は人を愛し、我が子のように接し、働き掛け続けていたのです。弱さ故に罪を犯し、悪の力に引きずられ、神に背を向ける人々をご自分の子供達とする為に、神は御子を世に遣わし、悪の力を打ち破り、罪から解放し、神が与えた自由を正しく使う者とする為に、御子をこの世に遣わしたのです。

 時が満ちて、御子が世に生まれました。何年の何月何日だったかは分かりません。紀元前一桁の5月頃の説が最も有力なだけです。その日、神の御子主イエスが人としてこの世に生まれたのです。御子が救い主として世に生まれたことを喜び、感謝しましょう。主が世にいるから、私達はどうすれば神に喜ばれるかを知る事ができ、今も教えられ,助け、導かれて神に喜ばれる者として世に生きられます。私達を愛し、御子を与えた神に感謝しましょう。

 パウロは「神はご自分の御子を女から生まれ」させたと言います。主は私達と同じように母から生まれ、赤ちゃんの時があり、年を経るごとに成長していたのです。そして「律法の下にある者として」と彼が言うように、私達と同じ悪が支配する世界に生まれました。人としてあらゆる束縛、制限を受ける者として生まれたのです。しかし主は決して悪に負けませんでした。ですから私達は、悪が自分の支配下に置こうと働き掛けてくるこの世で生きていても、その束縛を受けながらもそれに縛られずに、神に喜ばれる者として生きられます。主がその道を歩み、生き方の手本を見せたからです。

 5節に御子が遣わされたのは「律法の下にある者を贖い出す為であり、私達が子としての身分を受ける為」とあります。イエスを主と信じる者は、罪の束縛から自由になるだけでなく、神の子としての身分を受けられると言います。福音書に書かれているように、主イエスは神の御子です。神を父と呼び、神は主が願う事は何でも叶えています。主は山に登り、一人祈りました。父との霊的に深い繋がりを保ち続けました。主は御子で、神を父と呼べるからこそ、福音書に記されている力強く、確信と平安に満ちて生きたのです。神を父と呼べることは素晴らしいことです。私達も神の子となるなら、主のように、そしてこの書を書いたパウロのように、常に喜び、絶えず祈り、全ての事を感謝して生きられるのです。パウロは、主を信じ、神の子となれば、人であってもこのように生きられると模範を示したのです。しかし、人が神の子とされる為に、主は十字架に掛かって死んだのです。主は神の御子です。御子でありながら、十字架に掛かって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫びました。主は私達全ての者を罪から解放し、罪を贖い、神の子とする為に、私達の犠牲となって死ぬ為に、世に生まれたのです。神の子とされることの素晴らしさ、その重さを思い、御子の誕生を感謝し、喜び祝うのがクリスマスです。

 何故、神の御子が死ななければならなかったのでしょうか。御子は神と同じ本質を持ち、私達と同じ人として生きながら罪を犯さず、私達とは全く異なる方です。私達の罪が取り除かれ、神の子となるにはその清い方の十字架の死が必要だったのです。主の清さの故に、私達も清い者となれるからです。

 しかし、神の子となった私達が世で神の子として生きる為には、十字架の死だけでなく、復活して共に生きる助け主が必要です。その為に神は御子を復活させ、御子を主と信じる者が神の子として永遠に生きられるようにしたのです。主イエスを信じる者は神の子となり、神を父と呼べます。主の祈りに置いても「我らの父よ」と呼び掛けています。私達はそう呼べる事の重さを幸せを深く味わっているでしょうか。私達に神を父と呼び、神の子としての人生を歩ませる為に、主は世に生まれ、十字架に死に、復活し、今も、全ての人と共に生きています。主イエスの誕生により、全ての人は神の子とされたのです。私達が今礼拝できているのは、皆、神の子とされているからです。まだ信じられなくも神が神の子とその人々を見て、信じるのを待っています。皆で、神の子とされた幸せを味わいつつクリスマスを迎えましょう。