メッセージ(大谷孝志師)
暗き心に光が輝く
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年12月1日
ヨハネ1:1-11 「暗き心に光が輝く」 牧師 大谷 孝志

 今日からアドベント、クリスマスを迎える準備の時に入りました。クリスチャンで有る無しを問わず、多くの人々がクリスマスを祝い、日本でも年末に欠かせない行事になっています。「教会でもクリスマスをするんですか」と聞かれて驚いたという話をクリスマス礼拝の旅ごとに冗句に使う牧師がいました。今はそんな誤解をする人はいないと思いますが、毎年必ず来るクリスマスですが、毎年新鮮な思いでクリスマスを迎えましょう。クリスマスはキリスト礼拝を意味し、クリスマス礼拝は、キリスト礼拝礼拝となり、山に登山すると言うのと同じで、日本語としては可笑しいのですが、日本の教会では普通にクリスマス礼拝と呼びます。そしてクリスマス礼拝をして、主イエス・キリストの誕生をお祝いしています。

 マタイとルカの福音書には主の誕生物語がありますが、ヨハネには有りません。しかしヨハネは、主イエスがどんな方であり、何故この世に生まれたのか、つまり、なぜクリスマスが全ての人にとって喜びであり、祝うのかがよく分かります。

 5節に「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」とあります。闇は私達の心のことです。私達の心は闇だったのです。私達は自分の心の中も、相手の心の中も正確に知ることができません。明日のことも分かりません。でも、自分なりに考えてこうだと決め付けます。思い込みます。そして自分や相手を傷つけ、後悔することが多いのではないでしょうか。自分は見えると思い込むところから裁きが生まれます。自分だって同じような事をしているのに、気付かずに相手だけが間違ったことをしているとを裁いてしまうのです。闇の中に生きているからです。聖書は何故、「光は闇の中に輝いている」と言うのでしょうか。光は私達の主イエスです。主イエスが私達の心の中に、私達の人間関係の中に輝いていて下さっているのです。私達がその事実に気付かないだけなのです。私達は光の中にいるのに、この事実に気付かないから、互いに闇の中で裁き合い、傷つけ合い、苦しみ呻くままになっているだけなのです。主に目を注ぎましょう。確かに主は見えません。見えない主に目を注ぐ時、主は私達の心を闇から光に変えて下さいます。私達の交わりを、人間関係を闇から光へと変えて下さるのです。

 闇から光に変えられるとはどういうことでしょう。暗室を思い浮かべましょう。電気を付ければ闇はなくなり明るくなります。闇が部屋に満ちているのではなく、光が無いことが闇なのです。主は暗室のような私達の心を、私達の人間関係を照らす真の光となって下さるのです。私達の心が光で満ちあふれ、私達は光の世界の中で共に生き、愛し合い、助け合い、支え合って生きられるのです。主イエスが世に生まれたので、神の全ての人の闇で満ちていた暗い心を光で満たす計画が始まったのです。だからクリスマスは素晴らしいのです。ヨハネは「主が自分の所に来たのに自分の民は主を受け入れなかった」と言います。人々は心の目が閉じたままなので主の素晴らしさに気付かなかったのです。だから、福音宣教が必要なのです。私達は主イエスの素晴らしさを知っています。体験しています。心が光で満ち溢れています。私達の心が綺麗だったから光が満ちているのではありません。主が光として共にいるからです。心が主に相応しいから主が共にいるのでもありません。主が私達を愛し、希望と喜び、光に溢れた人生を与えようとしたからです。主は私達の周囲の人々も愛し、私達の光の世界に招いています。主の愛を伝えましょう。主の素晴らしさ、クリスマスの素晴らしさを伝えましょう。