メッセージ(大谷孝志師)

マリアの信仰に学ぶ
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年12月8日
ルカ1:26-38「マリアの信仰に学ぶ」  大谷孝志牧師

今日は、主イエスの母となったマリアの信仰について学びつつ、クリスマスを迎える準備の時を持ちます。彼女がどのような女性であったかは、26,27に記されています。彼女はイスラエルの北部のガリラヤのナザレと言う町にに住んでいました。ダビデ王を先祖に持つ家系出身のヨセフの婚約者でした。ユダヤ人はダビデの子孫の中から、メシア・キリストが生まれ、昔のダビデ時代のような王国を復興すると信じ、長い間、メシアの出現を待ち望んでいました。その神の約束が実現することが、この日に明らかになったのです。

 彼女が何歳だったかは不明ですが、処女と訳された言葉は、未婚の女性、若い女性なので二十歳前と考えられています。彼女の所に御使いガブリエルが来て「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」と言いました。ユダヤでは婚約中は一年は実家にいて、純血を保たなければなりませんでした。それにヨセフも正しい人ですから、すぐに妊娠する筈はないのです。ですから、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と御使いに尋ねたのです。すると御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と答えます。処女である彼女が聖霊によって妊娠すると告げたのです。私が高二でバプテスマを受けてまもなくの頃、同級生に「おまえはクリスチャンだそうだが、処女降誕なんて馬鹿らしいことを信じてるのか」と聞かれました。信仰に燃えていた私は「君達には馬鹿らしく見えるかもしれないが全世界の三分の二の人達が信じてるし、私も信じてるよ」と真剣に答えました。そして生物界に見られる処女生殖と呼ばれる現象や歴史上の多くの偉人にまつわる処女降誕の伝説等を例に、処女降誕を否定できないことを熱心に主張したことを思い出します。でも実は、信仰者にとって処女降誕が大切なのではありません。主は処女から生まれたから清い方なのではなく、神が人として世に生まれた方だから清い方なのです。神が神であることを明らかに示す為に、人が人知を越えた神の力を信じ「私は信じます」と告白する者となる為に、神は処女降誕という手段を用いたのです。これは私達の信仰を求める出来事なのです。

 しかし、マリアにとっては自分の人生を大きく変えられる出来事でした。何故なら、ユダヤでは婚約は結婚と同じ義務と責任を求められました。この時期の妊娠は不品行であり、女性が不可抗力だった場合を除いて、死刑と定められていたからです。私達はクリスマスを迎えるこの時、マリアがどんな信仰をもってこの事実を受け止めていたかを学び、思いもしないような現実に直面せざるを得ない御心を示された時に、どうすべきかを考えましょう。

 マリアは、御告を聞いて驚きました。その驚愕ぶりから、彼女がキリストの母となることを願っていたのではないことが分かります。神は突然人の人生に介入してきます。私は高二の4月に受浸し、9月には献身し、神学校に行く決心をしました。でも、数ヶ月後、自分で決めたものの御心かどうかが分からなくなり、目標を私立の政経学部に変えて受験勉強をしていました。 しかし突然光に包まれ、御言葉が響いて、神学部に目標を変えさせられました。神は突然人生を根底から変えるような介入をしてくるのです。私の場合は元々いけたらいいなで、でも確信がなかっただけですが、マリアの場合は、考えてもみなかった事態に直面させられたのです。しかし彼女は、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と答えたのです。彼女にとっては、姦淫の罪を犯したと非難される恐ろしい事です。それに自分の身に具体的変化をもたらし、隠しようがない事です。それなのに、なぜ告げられた事を受け入れられたのでしょう。それを御使いが告げたからです。

 彼女は告げられた事が、主の計画による命令と悟ったのです。自分がしっかりと神に捉えられていると悟ったのです。神は何故彼女を選んだのでしょうか。彼女も普通の女性として生きてきた筈です。何の罪も犯さなかった訳ではないと思います。しかし神は、彼女が自分の心も現在も未来も全てを神に委ねられることを見抜いていたのです。神は、私達に新しい使命を与えることがあります。自分にそんな事が出来る筈がないと思っても、神は私達に出来るからその使命を与えたと信じましょう。神は私達に新しい人生を与えようとしているのです。私達はこのマリアを通して、神を信じるとはどういうことかを教えられます。神を信じるとは、神に従い、神に服従して生きることなのです。私達は神のものだからです。ですからパウロは多くの個所で自分を神の僕、奴隷、囚人と言っています。主イエスを信じる者は、自分の心も身体も過去も現在も未来も全てが神のものと信じることが求められます。それでは自由がなくなってしまうのでしょうか。そうではなく逆です。主を信じるとは神の奴隷となることですが、そこにこそ真の自由があるからです。

 マリアは御使いが去ると親類エリサベツの所に急ぎました。彼女が自分に起きた事を伝えたい、自分と同じ経験した彼女に、是非話を聞いてもらいたいと思ったからです。彼女が受けた衝撃の強さが分かります。エリサベツは聖霊に満たされ、彼女に「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」と言います。マリアは神の言葉は必ず実現すると信じ、神の奴隷になったからです。エリサベツはその彼女を幸いですと言ったのです。

 神の囚人・奴隷となるとは、したい事が出来なくなって不自由な生活を強いられるのではありません。喜びに満ちた自由な生活へと導かれることです。聖書は私達に「あなたは本当に自由ですか」と問い掛けています。過ちと分かっていてそれを行い、常識や世間に惑わされ、良い事、正しい事、相手の為になる事だと分かっていても、それをする勇気がなければ、この世の悪の力の奴隷になっているのだよ、と神は語り掛けているのです。私達がその御言葉を聞き取り、神に喜ばれる者、神のものとして生きるのを神が望んでいると気付きましょう。神のものに成り切ることには恐れが生じますが、恐れ、惑わそうとするのは悪の力です。それに負けずに、神の奴隷となりましょう。安心して下さい。神は私達に豊かで恵みに満ちた真に自由な道を歩ませるからです。私達の心に語り掛ける神のみ声に耳を傾けましょう。「私のものになりなさい。ここに真のあなたの人生があります」と今も語り掛けています。