メッセージ(大谷孝志師)

神が共にいる喜び
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年12月15日
書 マタイ1:18-25「神が共にいる喜び」  大谷孝志牧師

 マタイには、マリアの婚約者であるヨセフへの受胎告知が記されています。「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。ヨセフが婚約者のマリアを離縁しようと思ったのは、彼女が妊娠していると分かったからです。婚約中なのに離縁しようとしたのは、先週もお話ししたように、ユダヤでは、婚約は律法上は結婚と同じ重さを持ち、妻と夫としての義務と責任が求められたからです。

 ヨセフとマリアが「まだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。何故でしょうか。マリアが彼に告げたからとしか考えられません。ですから、彼女が御使いに知らされたこと、信仰的決断もって答えたことを、彼は聞かされた筈です。彼は自分が妊娠させたのではないと分かっていましたから、そうかもしれないとは思ったでしょう。でも彼は、聖霊によって妊娠したと信じられなかったのです。もし、その事を信じられたとしたら、離縁しようなどと彼が思う筈はなかったからです。

 ヨセフは「正しい人」でした。彼は律法を遵守している人だったからです。律法は、婚約中の女性を厳しく束縛しますが、男性は束縛されていません。ということは、彼女が純潔を守らず、他の男により妊娠したら、姦淫の罪に問われ、死刑になります。しかし、彼が彼女を妊娠させても、人々は、彼が彼女の純血を保たせなかったことを問題にするだけだったのです。ですから、彼女をさらし者にしたくなかったというのは、自分がさらし者になることを恐れたからに他ならないことになります。直接話しを聞いた自分が聖霊による妊娠を信じないのに、他の人々が信じる筈はなく、自分が非難されることは目に見えていたから離縁しようとしたのです。更に重要なことは、彼が密かにであっても離縁しようとしたのは、彼が彼女を姦淫を犯した罪人と認めたことになることです。彼女は聖霊による妊娠なので、自分は罪を犯していないと彼に訴え、信じて欲しいと願った筈です。しかし彼は信じられなかったのです。ヨセフにはマリアの言葉と信仰を受け入れられなかったからです。

 マリアは婚約中の妊娠により、大きな重荷を負っています。ヨセフはその重荷を負うともせず、彼女を切り捨てることで、問題が大きくなるのを避けようとしたのです。彼の考えは、自分の正しさを全うできるようにしているだけの印象を受けます。とは言え皆さんは「思い巡らしていたところ」という言葉に、彼が色々と考えあぐね、迷っていた印象を受けるかもしれません。しかしこの原語は、「決意した時」と訳した方が良い言葉なのです。彼が、離縁を決めかねていたのではなく、マリアの事より自分の事を第一に考えて決めてしまったことをこの言葉が示しています。但し、「正しい人」には「憐れみ深い、情け深い」の意味もあります。妊娠中の彼女を突き放すことは、情け深い行為ではなく、御前に正しい事と思えないと考えた可能性はあります。でも、自分以外の男の子を妊娠していると思い込んでしまった彼は、彼女を愛しているとは言え、共に生きるのは御前に正しいとは思えなかったのです。

 ですから、ヨセフは妻マリアを離縁することを決心しました。自分の思いだけで相手を決め付けた彼は間違った決心をしてしまったのです。彼は、神を信じ、神も彼を愛していました。ですから彼を放置しませんでした。私達も重荷を負い、助けを必要な人と接しても、その人を自分自身のように愛することよりも、自分の身を守ることの方を先に考える時があります。しかし、神は素晴らしい方です。神は、神を信じ、頼る私達の弱さも過ちも包み込んで、自分が心から正しいと思える道を見つけさせ、歩ませる方なのです。ですから神は御使いを遣わし、彼の思いを打ち砕きました。彼には大きな衝撃だったでしょう。マタイは「その名はインマヌエルと呼ばれる」とイザヤ書の言葉を引用し、イエスが生まれることによって、人がどのような世界に生きることになるかを教えました。彼は御使いによって「神が私達と共におられる」という驚くべき事実が、自分達に起きると知らされたのです。マリアが聖霊によっ妊娠し、男の子を産み、その方が全ての人を罪から救うことが起きると知らされたのです。ヨセフは妻マリアを、そのあるがままで受け入れられました。マリアが姦淫の罪を犯していないことが誰の目にも明らかになる状況になった訳ではありません。御使いに知らされる前でも彼女を信じ抜けば良かったのです。しかし出来なかったのです。何故出来たのでしょうか。彼がインマヌエルの事実を知り、変えられたからです。聖書は、神が共にいると知る時、人が全く変えられると教えます。神を信じなくても平気と思っている人はたくさんいます。ヨセフは、神が共にいると信じられたから、自分大事の思いに勝てたのです。マリアを心から受け入れられたのです。マリアにとってもヨセフにとっても何ものにも換えられない嬉しい事でした。神が自分と共にいると信じられることは、本当に素晴らしいことなのです。

 ある教会にミャンマーから技術研修に来ていた人がいまた。彼はバプテストで、バプテスト教会を見つけ出し、その教会に数ヶ月出席し、主にある暖かい交わりを続けました。帰国する前に彼は、礼拝で証しをしたいと申し出たのです。彼は「自分の目の前で家族が惨殺され、日本人が殺したいほど憎くてたまりませんでした。しかし主イエスを信じた時、この私の為にも主が死に、このような私を主が愛していると知りました。その時、それほど憎かった日本人を愛することが主を愛することだ、と思えるようになったのです。そして今、日本の人達とこのように主にある豊かな交わりが出来、感謝し喜んでいます」と証ししました。語る者も聞く者も共に涙を流して主に感謝しました。この奇跡が起きたのは、彼と教会の人々に神が共にいたからです。インマヌエル(神が私達と共におられる)という事実は、人の心を大きく変えます。神が共にいて神の愛によって自分が生きていると気付いた時、彼は日本人達をあるがままで受け入れられ、それ迄の自分の思い、憎しみから自由になり、教会の人々と共に喜んで生きられたのです。ヨセフは御使いが現れたことにより、その事実を体験しました。私達には聖書が、内に住む聖霊が与えられています。聖書を読み、祈る時、神が「私が共にいるよ」と語り掛けています。その御声に気付き、私達も新しい人生へと踏み出しましょう。