メッセージ(大谷孝志師)

心に主を迎え入れよう
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年12月22日
聖書 ルカ2:1-7「心に主を迎え入れよう」  大谷孝志牧師

 今から二千年前、ローマ帝国の片田舎とも言えるユダヤのベツレヘムで、私達の主イエスは生まれました。聖書のどこにも、主が馬小屋で生まれたとは書いてありません。しかし、2:7,12,16に「飼葉桶」という言葉があります。これは「家畜小屋」とも訳せる言葉です。聖誕劇では、マリアとヨセフがベツレヘムに着いた日に宿屋を探し、どこも一杯だったので家畜小屋に泊まったことになっています。しかし主が生まれたのは「彼らがそこにいる間に、月が満ちて」なのです。また、口語訳聖書だけは宿屋を「客間」と訳します。このギリシア語には客間の意味もあるからです。当時の庶民の家は狭かったのですが、来客を泊める部屋がありました。しかしこの町で自分の出生地を明らかに出来る大勢の人が、住民登録の為に帰って来ていたのです。それで、生まれた赤ん坊を寝かせる場所がなく、イエスの両親は、生まれた子を布、おむつのような産着にくるみ、家畜小屋の飼葉桶に寝かせたのだと思われます。飼い葉桶は、新鮮な藁を敷けば比較的安全で衛生的にも良かったのです。とは言え、イエスは、神がダビデの王位を与えると約束した子です。家畜小屋が聖なる方、神の御子である主イエスに相応しい場所だったのでしょうか。

 神は、目的があって主イエスの誕生の場所をここにしたのです。それは主が処女マリアから生まれたのと同様、神は私達に信仰を要求しているのです。羊の群れの夜番をしていた羊飼い達に、御使いは「布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」と言いました。御使いはマリアにも「生まれる子は、ダビデの王位に就く者、聖なる方、神の子」と言いました。生まれる子ですからイエスはただの赤ちゃんです。どこから見ても神の御子・主キリストとは思えなかったはずです。しかし、羊飼い達がその赤ちゃんを見ると、御使いが言った通りだったのです。この子が救い主だと信じ、神を崇め、賛美しながら帰って行きました。

 ヨハネの福音書1:12に、神は「その名(イエス)を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」とあります。主イエスを信じる人を神は救います。主イエスの誕生によって、この世に神がいること、それも全ての人と共にいること、つまり「インマヌエル・神が私たちと共にいます」が現実となったからです。旧約の時代も、勿論神は人々と共にいました。神は様々な形で自身の臨在を明らかにし、選んだ人々を用いて御心を行わせていたのです。しかし、神が自分達は神と共にいることを心から受け止めるよう人々に働き掛けても、人々は自分中心に物事を考え、心が神から離れたままで、神が自分と共にいるとは考えられなかったのです。ですから神はご自身が世に来ることで、人々が神が自分達と共にいると分かるようにしたのです。

 そして神が定めた時が来たので、主イエスがマリアとヨセフの子として生まれました。神自身がこの世に存在したのです。主イエスが居る所、そこに神がいたからです。聖書を読むと、主が求める事に神は即座に応えています。御子の求めに応じて人には不思議としか思えない奇跡を、神は行っています。

 クリスマス、主イエスの誕生によって、神自身がその臨在を示す時が来ました。主の誕生は、神が私達と共にいる新しい時が来たしるしです。ですから今日、私達は神のその御心を感謝し、主イエスの誕生を皆で祝っています。私達もかつて世に生まれました。そして今ここにいます。では生まれた主は、今どこにいるのでしょう。先程、主は天に上り、父なる神の右に座していると信仰告白を共にしました。天は空の彼方、宇宙のどこかにあるのではありません。主はルカ17:21で、天、つまり「神の国はあなたがたのただ中ある」と言いました。私達は今、神の国にいるのです。目に見えない天、神の国に包まれています。今、主イエスはここにいます。ですが、包まれているだけでは不十分なのです。私達自身が主と生きた関係を持つことが必要なのです。それが礼拝なのです。私達は会堂に座り、賛美し、説教を聞き、献金します。しかしそれだけでは不十分です。そこに主との生きた交わりがなければ私達は、神が共にいる喜びを感じられないからです。礼拝は、私達が主と出会える時と場所です。ここで私達は自分に語り掛けている主の御声を聞き、主に愛されている自分を、生きる意味を、与えられている使命を知るからです。

 礼拝は真理を知り、勇気と希望を与えられる時と場所なのです。神が御子を与え、御子は私達を変え、生き生きと生きる者とする為に十字架に掛かって死に、復活して共にいます。主はここにいます。クリスマスのこの日、私達に目を注ぎ、語り掛けている主を、心に迎え入れましょう。心の内に主に住んで頂きましょう。主が私の内にいる思うと、私が新しくなります。自分や他人の見方、自分の現況や将来に対する考え方が大きく変わるからです。

 マッサージで生計を立てて、伝道していた女性がいました。戦時中外地で牧師の夫が天に召され、子供も二人天に召され、自分も戦後の混乱の中で栄養失調から失明してしまいました。知る人もいない地で残された二人の子を抱え、不安と絶望の中に落とされました。しかしある日、彼女は心に聖歌604番「のぞみもきえゆくまでに」が響いてくるのを感じたのです。その歌に励まされ、自分の身体に残されている恵みを数えました。主が共にいると知り、主を心に受け入れられたからです。目は見えなくても声は聞こえる、話せる、手も使え、歩けると気付きました。その時、更にⅠテサロニケ5:16-18の御言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」が示されたのです。彼女は全てを御手に委ね、一歩を踏み出しました。心の内に讃美と御言葉が入る余地があったのは何故でしょう。心に主を迎え入れる余地があったからです。主が生まれた時、主がいる場所が宿屋にはなかったと聖書に記されています。私達の心にその余地があるでしょうか。この世の事、生活の事、自分の事で一杯になり、汲々としていないでしょうか。彼女はそれ以上に厳しい状況にありましたが、主が共にいると感じた時、心を開き主を迎え入れられたのです。新しい人生を歩み出せたのです。

 心に主の為の余地を造り、心を開き、主イエスを迎え入れましょう。主は喜んで入り、私の心の内に住んで下さいます。その為に主は生まれ、今私達と共にいます。主の誕生を感謝し、皆で心からクリスマスをお祝いしましょう。