メッセージ(大谷孝志師)
永遠に生きる幸い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年12月22日
マルコ9:2-8 「永遠に生きる幸い」 牧師 大谷 孝志

 主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子達だけを連れて高い山に登りました。高い山は標高2815bのヘルモン山と考えられています。主は布にくるまれて飼い葉桶に寝かされていた赤ちゃんでした。成長し三十歳半ばで神の国の福音を伝える生活に入りました。素晴らしい教えを語り、数々の奇跡を行い、大勢の人々が主に従っていました。しかし、信じる者もいれば信じない者もいました。神であるのにこの世に神の子として生まれ、一人の人として世に生きていたからです。三人の弟子達にとっても同様でした。しかし、この山の上で彼らの見慣れていた主イエスの姿は一変し、栄光に輝く姿になりました。それだけではありません。預言者を代表するエリヤと律法を代表するモーセ、旧約の時代を代表するが現れて、イエスと語り合ったのです。エリヤは火の馬車が迎えに来て、生きたまま天に上げられた人です。モーセも目もかすまず、気力も衰えていないのに、主の命により死んだと申命記に記されています。二人の出現は、主を信じ主と共に生きる者には永遠の命が与えられることを、彼らに教え、私達にも希望と確信を与える為です。私達は生きています。でも、必ず死にます。でも、いつまでも生きていたいと思う人は多いのではないでしょうか。しかも、自分の事は自分で出来る状態で生きたいと思っています。そして、昔の人は有る訳がない不老不死の妙薬を探し求めました。

 しかし、私達の為に生まれた主イエスは、十字架に掛けられ、殺され、死にました。しかし復活し、永遠に生きています。だから私達は今、主イエスを礼拝しています。そして、主イエスを信じて神の子となる特権を与えられた私達も永遠に生きる者とされています。私達は自分自身を見ると、永遠というものをなかなか感じにくいのは確かです。だからこそモーセとエリヤが、世で人々共に生きていたのと同じ姿でペテロ達の前に現れ、その確かさを示す証拠となったなのです。

 しかし世の人々は、主イエスと分かる姿で栄光の姿に変わったイエスと彼らの目の前で主と語り合っているモーセ達のことを信じません。私も教会に来る前はそうでした。しかし、主イエスを信じてからは、これは真実だと確信しています。聖書は私に、主イエスがどんなに素晴らしい方か、主に生かされることがどんなに幸いかを教え、信じない者ではなく信じる者になるよう教えてくれたのです。

 救い主が生まれた日に羊飼いが御子イエスの所に来たのも、その後、東の方から来た博士達が幼子に献げ物をし、礼拝したのも、御使いに知らされ、星に導かれたからです。同じように私達には聖書が与えられています。聖霊の導きによって聖書の言葉を御言葉として聞き取れます。私達も救い主にお会いできるのです。

 しかし、主の栄光に輝く姿と神により天に召された人々が復活し永遠に生きる姿を見たペテロは「私達がここにいるのは素晴らしいことです」と言いますが、聖書はすぐ後に「彼らは恐怖に打たれていた」と記します。永遠を経験すること、神が共にいると知ることは、汚れた人間に過ぎない自分が聖なる神の国にいると知ることなのです。しかし雲がわき起こって彼らを覆いました。それは、御子を世に与えた父なる神の愛、私達の為に十字架に掛かって死んだ主の愛が、私達を今覆っていると教えています。栄光の救い主として主が今も共にいると信じる私達は、主の祝福の内に生かされているのです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」とヘブル13:8に記されている通りです。私達は主の愛に包まれて、主と共に永遠に生きる者とされています。感謝です。