メッセージ(大谷孝志師)

主は全ての人を照らす真の光
向島キリスト教会 礼拝説教 2019年12月25日
聖書 イザヤ11:1-5、ヨハネ1:1-8「主は全ての人を照らす真の光」  大谷孝志牧師

 イザヤは9:7で御子はダビデの王座に就くと言い換えますが、ここではエッサイの株と言います。それは、新しく来る神の国を治める王は、預言者サムエルに油を注がれたエッサイの子ダビデの霊的子孫であり、罪と背信に満ちたダビデ王の肉による子孫ではないと強調する目的があるからです。来たるべき救い主には主の霊が留まり、主を恐れる霊に満たされる平和の王となる方だからです。その日が来れば、その方によりこの世界は暗闇がなく、主の光に満ちた世界となると預言しています。

 イザヤは、メシアの資質を「霊」という表現を用いました。それは「知恵と悟りの霊」と言います。知恵の語源は「さばく」です。物事を裁き、判断するのに必要な資質が「知恵」です。「悟り」は物事を識別する資質です。主は物事を正当に評価する力を持ち、それを決定し実行する力も持つかたであるとイザヤは預言しています。世に来られた主イエスは人として歩み、人としての歩みの模範を示しました。人に大切なのは、父なる神を知り、恐れ敬う資質を持つことだからです。父と深い交わりを持つ主は、父が子の全てを知り、子の願いを叶えると知っていました。私達は信仰生活の中で、主イエスのように父を知り、将来と希望を与える父を深く信頼することが大切とと教えられます。神の一人子である主イエスがその生涯の中で示した父なる神との深い信頼関係が、今、主と共に生きる私達に与えられるからです。12:2でイザヤは「見よ、神は私の救い。私は信頼して恐れない。ヤハ、主は私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」と言います。この預言が私達に実現しています。私達も神を畏れ敬う霊に満たされています。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えて(Ⅱテモテ1:7)」くださったからです。

 主は人の真実を見抜かれる方です。だから安心できます。人は、弱く衝動的に言葉が出、手足が動いてしまいます。本心は違う所にあると弁解しても後悔先に立たずです。これに対して主は、人の本心を見極め、赦し、諭し、戒めます。ですから主は私達の言動を見聞きしても見捨てません。主はメシア、救い主だからです。何が必要で、どうすればよいかを知って指示します。そして完全でなく、知恵と悟り、思慮と力が足りず、弱く貧しいこの私達の為に正当な裁きを行い公平に弁護します。

 私達は罪人で自己中心的です。でも、狼や豹が子羊と共に宿るように、相手に害を加えず、滅ぼさない生き方ができます。罪と死が満ちる主を知る喜びが満ち、闇の世が光の世に変わったからです。主が世に来、十字架に死に復活し、今も働き続けているからです。この喜びの知らせが全世界に届き、闇でなく光の中を歩めとの御言葉が響き渡っています。闇の中にいる世の人々を照らして喜びの知らせを伝える反射板となりましょう。主を信じて生きる素晴らしさを伝える鏡になれば良いのです。

 クリスマス、主イエスは人としてこの世に生まれました。主は全ての人に命を与え、真の光で照らす方です。人は、アダムらがエデンの園を追放されて以来、霊的闇の中にいます。主は世に来る前から人々を照らし続けています。でも暗闇の中にいた人々は主の光を理解できませんでした。光は何もない闇の中では、ただ進むだけで、光があっても人は光が分かりません。同様に、反射物がなければ、自分を照らす神の光が分からないので、神が何の為に、何の目的で人に関わるか分からずに、御前に正しい者として生きられなかったのです。その光に照らされ、それを反射する人が必要だったのです。神は光の輝きを明らかにし、光について証させる為、ヨハネを世に遣わしたのです。教会の働きも同様なのです。世の人々は「世の中一寸先は闇だよ」と言います。実は主イエスを信じると、神の光が闇の中で輝いていると知り、世の中が闇ではなくなるのを知らない人々に、光について知らせる使命を神は私達に与えています。私達が、主に照らされ、光を反射する世の光となることで、世の人々は、真の光、神の光が輝いていることを知り、その光に照らされる素晴らしさを知ります。その使命が私達に与えられているのです。

 私達は光ではありません。光を反射するだけです。つまり光について証する為に教会にいるのです。教会がなく、私達がいなければ、光は闇の中をただ直進するだけです。私達はキリスト者として生きていればよいのです。主にバプテスマを授けた前後以外にはヨハネの目立った活動は聖書にありません。「彼によって全ての人が信じるため(ヨハネ1:7)」とありますが、その結果もありません。しかし、彼の存在の大きさは様々な所に現れ、人々は彼を通して主を知ろうとしています。彼は反射板に徹したと言えます。光に照らされる自分を示すことで、主イエスこそ、「すべての人を照らすまことの光」であり、主イエスに照らされてこそ、人は正しく、豊かな恵みを受けて生きられると人々に伝えたのです。

 ヨハネは駱駝の毛衣を着、腰に革の帯を締め、蝗と野密を食べていました。それは預言者の服装であり、当時の遊牧民の普通の食べ物です。主を明らかにするための特別なものではありません。私達も主に照らされることで、その私達を通して主が誰かが、明らかにされるだけです。大きな業ができる訳ではありませんが、私達は新しく造られ、新しい人を着ているのです。光は私達を通過しません。光を反射することでそこに恵みが生じます。私達はいなければならないし、いることが必要なのです。もし私達がいなければ、世の人は神の真の光が輝いているのが分からないのです。クリスマス、主が全ての人を照らす真の光として世に来たことを感謝しましょう。真の神の光を反射し、この光が今、全ての人を照らしていると知らせましょう。今は、人々が福音を知り、救いへ導かれる恵みの時です。その為に、ここに教会があり、私達がいます。