メッセージ(大谷孝志師)
来年も主と共に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2019年12月29日
ピリピ1:27-30 「来年も主と共に」 牧師 大谷 孝志

 昔、一休禅師は<門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし>と、正月を迎えて浮かれている人々は一年また死に近付いたことを知らぬ可愛そうな人々と歌った。さすが一級の宗教家。死をもって冥土への旅が始まるのではなく、現在も冥土への旅を続けていると知っていた。彼は永遠を通して現在を見る目を持っていたと言える。主を信じる私達も、永遠の命は肉体の死後に与えられるのではなく、救われた時に与えられ、今の時を永遠に生きていると信じる。新しい天と地が現れる時に私達は神の国を嗣ぐという約束が与えられている。それを保証する聖霊の証印という「焼き印」をこの身に押されている。私達には、死はもはや滅びの門ではない。聖なる都、新しいエルサレムに入る門。

 しかし、仏教においては死は生、老、病、死という四苦の一つであり、仏教は悟りを大切にする。人生は苦であると悟る者は、人生は冥土への旅との人生の新しい見方を得る。しかしそれだけでは、人生は苦を苦として受け入れて歩む冥土への旅なので、正月は人にとっては浮かれる程めでたくはない、と教えるだけ。

 それに対し、キリスト教は仏教の一歩先にいると言える。パウロは「私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬこともまた益です」と断言し、「苦しみも賜った」と、苦も恵みの賜物だと言う。この世の中で真理を追究した仏教と神の領域からの知識、啓示により真理を知らされたキリスト教の違いがここにある。

 彼は1:27で「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と命じる。これこそが主に喜ばれ、祝される生き方だから。しかしこの生き方をすれば、平安で何の苦しみも無く生きられる訳ではない。それに、品行方正、清廉潔白、捨私奉主の生き方をしないと、人は悩みや苦しみを味わうから気を付けよとの警告でもない。むしろ主は「あなたがたは世にあっては患難がある」と言う。彼も1コリ15:58で「あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と言う。彼は数度の伝道旅行の中で多くの苦しみを味わったが、それにより多くの教会が生まれ、多くの人々が救われた。母がよく「若い時の苦労はかってでもしろ」と言った。確かに苦労は無駄にならない。しかし聖書は、人生に於ける苦労は主が必要だから与える賜物と教える。私達は一人ではない。私達の全てを知り、目を注ぎ、手を差し伸べている主が共にいる。それに、心を一つにし、力を合わせられる兄姉、互いに心を交わし合い、祈り合える友がいる。もうすぐ新しい年が来る。来年も、正しい信仰から離れず、お互いに励まし合いつつ生きよう。

 物事に初めがあるように、必ず終わりがある。人生にも死という終わりがある。しかし、私達にとって死は終わりではない。イエスを信じる者は、永遠に生きる者とされているから。伝道者の書3:11に「神はまた、人の心に永遠を与えられた」とある。永遠への思いは私達の心を豊かにする。希望と平安が与えられる。

 来年も今年と同様、主が共に歩み、希望と平安を与える一年になると信じよう。死後、永遠の御国で休みを賜うまでは、私達には為すべき事が有る。だから、今、この世に生かされていると信じよう。そうするなら、いつ終わるかと恐れることも、また同じ一年かと諦める必要もなくなる。人生は苦と悟る必要も、何をしても無意味、無駄と諦める必要もない。主は、必要だから私達に新しい一年の歩みを始めさせる。必ず来る主の日まで、一日一日を主と共に、そして福音の信仰の為に兄姉と心を一つにし、主にしっかりと目を留めて歩む一年でありたいと思う。