メッセージ(大谷孝志師)

真の信仰者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年1月5日
聖書 マルコ9:14-29「真の信仰者に」  大谷孝志牧師

 新年明けましておめでとうございます。新しい年2020年が始まりました。過ぎ去った年を振り返って考えた時、皆様はどんな感想を持ったでしょうか。自分の弱さや罪、能力の限界を痛感させられた人もいたのではないでしょうか。年末22日の夕礼拝で、主が高い山の上で変貌し、人となった神としての姿をペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子に現した箇所を学びました。今日はその間、麓に残された弟子達に起きた事を通して、真の信仰者について学びます。麓にいた弟子達は難問に直面していました。ある人が汚れた霊に憑かれた息子を連れて来て、彼らにその霊を追い出してくれるように頼んだのですが、彼らにはできなかったからです。主と三人の弟子達が山から戻ってくると、その事で律法学者達が彼らと論じ合っていました。

 その父親の言葉から類推すると、律法学者達は、弟子達の無能さはイエスの無能さの証拠だと主張し、弟子達は自分達にはできなかったが主イエスにはできると反論したのでしょう。彼らに不可能だから、イエスが無能だという主張はおかしい、その主張は許せないと弟子達は考えたから、論争になったのです。私達も、他の人や自分が困難な状況に置かれ続けていると、主に呟いてしまう時があります。主は全能者で、万事を益とする方なのに、何故そのままなのかという呟きです。しかし裏を返せば、人間に不可能でどうにもならない事は主にもできない、と主が無能だと考えたのと同じで、イエスに従う者が無能なら、イエスも無能だと主張した律法学者達と同じなのです。私も他の人から、主イエスを信じ、主に願いが実現するように祈っていても、少しも変わらないじゃないかと言われたことがあります。皆様も主イエスを信じても何も変わらないではないか言われ、動揺したことはないでしょうか。

 弟子達は本気で主イエスにはできると信じて彼らと論じ合っていたのでしょうか。実は、この点を考えることが真の信仰者について考える上で大切なのです。彼らは6:7で、世に遣わされた時、主に悪霊を制する権威を与えられています。そして6:13では、世に遣わされた彼らが多くの悪霊を追い出しています。そのすぐ後に「イエスの名が知れわたった」と有ります。この事から、その時彼らが癒せたのは、主に遣わされ、主の代わりに働くという思いが強く、自分はなく主イエスを前面に出し、主に働いて頂くとの思いが強かったからだと思われます。全ては主の業、主がする事だからなのです。弟子達は主に従って生活を共にする内に、癒すのは主で自分達ではないことを忘れ、癒やす権威を与えられた自分ならできると錯覚したのです。ですから19節のように、主は不信仰を自覚していない彼らに激しい怒りを発したのです。

 主イエスが家にはいると、弟子達は自分達が霊を追い出せなかった理由を主に尋ねます。分からないことが恥ずかしかったからでしょう。そっと尋ねました。すると主は「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことは出来ません」と言います。彼らが祈らずに霊を追い出そうそうとしたのでしょうか。彼らがそんな事をしたとはとても考えられません。 今も悪霊は存在します。しかし、現代の私達には悪霊の存在をこの当時の人々ように現実感をもって感じられないのは、主が支配下に置かれているからです。私達は主の名によって祈るならば、神が求めるものを与える世界、主が支配する世界に生きているのです。主は御力をもって私達を悪から遠ざけてくれます。しかし、空気に包まれているから生きていられるのを忘れることがあるように、私達が主の支配する世界にいるから、主の恵みに包まれているから生きていられるというその素晴らしい事実を忘れてしまうことがあるのです。この箇所はそのような私達に、非常に大切な事を教えています。

 この弟子達も、自分の力でなく主の力によって追い出そうとした筈です。しかし彼らは大きな勘違いをしました。主に祈れば自分達が出来るのではなく、その人が祈っているイエスがするのです。彼らは自分達に力があるかのように考え、人間と主を混同させ、人を神から引き離そうとするというサタンの巧みな誘惑に落ちてしまったのです。私達は祈る時「主に全てを委ねている」と思っています。その時「自分が」という思いを徹底的に抜き、主に全てを委ねることが大切です。当然ですが、祈りを聞く主がするのであり、主がさせるから出来るのです。信じれば祈った通りになる筈だと考えてはいけません。私が信じるなら主がして下さると一歩下がることが必要なのです。

 さて、父親は汚れた霊に憑かれた息子を、何故主のもとに連れて来たのでしょう。彼は主が癒せると信じたから来ました。しかし確信し、主は必ず癒せると信じたから来たのではないことが、彼の「しかし、おできになるなら私たちを憐れんでお助け下さい」との彼の言葉に滲み出ています。彼にとって、霊が息子から追い出されることは、半信半疑にならざるを得ない程、信じられない事だったのです。私達が祈る時も、どんな困難な事でも、祈らないより祈った方がよい程度の祈りでは駄目と聖書は教えます。主に祈る時は、主が必ず実現するとの確信をもって祈る事が必要なのです。息子の幼い時からの苦しみが取り除かれることは、見なければ信じられないことだったのは確かです。しかし彼は「信じる者には、どんな事でもできる」と主に言われた時、彼は自分が「求めなさい。そうすれば与えられる」と言う全ての不可能を可能にする救い主の前に立っていることに気付かされ、変えられました。

 私達が願う時、その殆どは自分の能力を超え、自分にはどうにもならないことを主に願っています。叶えられる事もあれば、いくら経っても叶えられない場合もあります。しかし、叶えられないのは、自分の努力が不十分だからでも、御心ではないからでもありません。まして他の霊的賜物を持っていると思う人に頼まないからでもありません。厳しい言い方かもしれませんが、自分の中途半端な信仰が主の力が働くのを拒んでいるのです。彼は「信じます。不信仰な私を助けて」と叫びました。人の能力の限界を超える事だからこそ、主が祈りに応えて必ず叶えるとの信仰が必要なのです。彼は自分が主が支配する世界にいるのに、その主を信じていなかったと知ったのです。私達も、主が支配する不可能が可能になる世界に自分達がいると先ず信じましょう。そう信じる者こそ「真の信仰者」だと、聖書は私達に教えています。