メッセージ(大谷孝志師)
闇を打ち破る力
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年1月5日
マタイ6:14-15 「闇を打ち破る力」 牧師 大谷 孝志

 世界の、そして日本各地の様々なニュースが、マスコミを通して私達の目や耳に飛び込んでくる。良いニュースとか心温まるニュースは案外少なく、殺伐とした思いにさせられるニュースが多いような気がする。静かな住宅地などで恐ろしい殺人事件が起こったりすると、近所の人は決まって「こんな平和な町でこんな事件が起きるとは思ってもみなかった」と言う。私達は平和な日常生活の日々を過ごしているように思っているが、現実にはいつ恐ろしい事件が起きるかもしれない世の中に私達は生きている。

 では聖書は、私達が住むこの世界についてどう言っているだろうか。聖書がこの世界について教えている基本的イメージはそんなに悪いものではない。天地創造の物語にしても、神はこの世界の全てを造った後、それらを見て祝福している。この世の全ては善いものとして造られているのに、聖書はこの世は悪である、世の人々は救われなければならないと教えている。神が造った善い世界が、悪に満ちた世界になってしまった。だから人は平和に生きているように見えて、心の底ではいつ落とし穴に落ちるか分からない不安感じている。それは何故なのか。

 神は人をご自分に似たものとして造った。だから、神が完全に自由であるように、人にも自由を与えた。しかし、人はその自由を正しく使えなかった。神がしてはならぬと命じた事をし、神に背を向けた。人の内に入った罪がこの世を悪の世界にしている。神が天と地を創造した時、闇が全地を覆っていた。その後の世界は、昼は太陽が輝き、月と星が夜の闇を照らしている。しかし人はその世界に生きているが、天地創造の時のように、霊的闇で覆われたままでいたのが現実。

 その闇を打ち破る方として主イエスは世に来た。イエスが十字架に掛かって死ぬ前、約三時間、全地が暗くなった、闇で覆われたとマルコ15:33にある。そこには神の痛みと悲しみが表されていると同時に、神が御子イエスの十字架の死によって打ち破ろうとしているこの世の姿、この世が闇で覆われている霊的現実が、象徴的に表されている。主イエスがご自身の十字架の死と復活によって、この世の闇を打ち破って下さった。ユダがイエスを裏切り、主の元を去ったのも夜、剣や棒を持った群衆と共に、ゲッセマネで祈った後、主が弟子達と話している時に彼が来たのも、主が捕らえられたのも夜だった。しかし、女性達がイエスが納められた墓に行き、主が復活したと知らされたのは、早朝、日の出の頃、主がマグラダのマリアに姿を現したのも朝。主の十字架と復活が、闇から光への大きな転換を暗示している。私達が主の十字架と復活を信じる時、私達も闇の世界から光の世界に導き入れられる。主は今日の聖書で、私達は人を赦せると教える。そして、私達が人を赦す時、私達の周囲が闇から光の世界に変えられると。とは言え、私達が人を赦さなければ、神は私達の過ちを赦さないと警告しているのではない。そうではなく、私達が互いに赦し合い、受け入れ合うなら、神は私達を赦し、受け入れると教えている。人を赦すとは、自分が全てを神に委ねる事。神の御旨のままに生きる事。神が支配する世界に生きる事。その時、自分の世に対する見方が大きく変わる。神と共に生きるので、この世が不安と恐れに満ちた世界でなく、希望と愛に満ちた光の世界に変わる。その中に住むことができる。主は私達が神に赦される生き方と赦されない生き方のどちらを取るかと問い掛ける。人の過ちを赦し、全てを主に委ね平安に生きる者となろう。その為に主が世に来たから。