メッセージ(大谷孝志師)

子どもたちを大切に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年1月12日
聖書 マルコ10:13-16「子どもたちを大切に」  大谷孝志牧師

 昔、ある教会に赴任していた時、部落差別問題研究会に出席したことがあります。その時、自分の教会の状況について話し合う時間がありました。私が「有力な教会員の息子が被差別部落の女性と結婚することになりました」と実例を挙げたら、「『有力な』は差別用語。教会員に有力と無力の違いはありません」と叱られました。人間は皆平等と心に刻み付けさせられた大切な思い出というか失敗談です。その当時の教会は、会計や事務に堪能な人、掃除や整理整頓をこまめにする人、女性会、青年会のまとめ役、新来者や長期欠席者に細やかに配慮する人、毎月家庭集会を行う夫婦、礼拝に出席するだけで皆が励まされる女性と様々な人達がいました。六組の夫婦の他、青年も多く、礼拝後、会堂で皆と遊んだり、時折ですが、夕方後一緒に食事やカラオケスナックに行く楽しみもありました。教会には生き甲斐を感じる場、気楽に付き合える交わりの場、安らぎの場が必要だから、主が一人一人を招いたのです。主の目から見れば同じ大切な一人一人です。しかし私は、それぞれの働きの質や量に差をつけて考えてしまっていたと反省させられました。

 イエスは、二回子どもを用いて弟子達に教えています。ここでは弟子達に教えた後、子どもたちを抱き上げて祝福していますが、9:36では、イエスは一人の子供を弟子達の真ん中に立たせた後、その子を抱いたままで弟子達に話をしています。両方共、間違った考え方をした彼らの心を見抜いた主が、それを正す為に子どもを用いています。9章では、弟子達はその前に、しかも受難告知(8:31)を聞いた後で、誰が一番偉いかと議論し合っていました。主に議論の内容を尋ねられても恥ずかしくて言えず、彼らは黙っていました。人は誰も人をランク付けする傾向があります。意識しないでも、人を仲間外れにしたり、考え方や判断で同じ傾向を持つ人々で集まってしまい、一つの群れになれなくなることもあります。主は弟子達に「このような子供達の一人を私の名の故に受け入れる人は、私を受け入れるのです。…私を受け入れる人は、私では無く、私を遣わされた方を受け入れるのです」と言いました。何故子供達を例に挙げたのかというと、当時は女性、子供、心身に障碍を持つ人を社会の一員と認めなかったからです。互いが同じ資格や立場を持つ仲間と認めなかったのです。人は、互いの間の小さな違いをとても大きく感じてしまい、自分はこの人と合わないと決めつけてしまうこともあります。その結果、関係にひびが入り、分裂してしまうこともあります。自分の判断でこの人はこうだと決め付けるのは間違いで、神に喜ばれないことです。だから主は、一人の子供を抱き上げて彼らに見せたのです。そしてこの子を私だと思って受け入れるなら、その人は私を受け入れる人ですよと教えました。主は、彼らの人についての見方をひっくり返し、神の見方で見なさいと教えたのです。子供達を自分が主と共に生きる為に必要な自分の仲間と認めて、受け入れましょう。そうすれば、今いる人、新しく来た人を含め誰に対しても、自分の大切な友として受け入れ合える教会、神が喜ぶ群れになれます。

 10章の人々は、何の為に主の所に子供達を連れて来たのでしょう。イエスに触れて戴こうと思ったからです。何故、弟子達は彼らをたしなめたのでしょう、大人にとって子供は、分からない、できない、言う事を聞かない存在と考える人が多いのは事実です。子育で嫌と言う程それを実感した方もいると思います。ですから、弟子達が彼らを叱ったのも分かる気がします。しかしです。考えてみて下さい。子供が電車の中で騒いだ時、自分の子、他人の子だから仕方がないと許す場合と、逆に、自分や他人の子でも許せずに叱りつける場合が有ると思います。同じ状況でも、自分が持つ価値観や損得勘定で、反応が全く異なるのです。ここで主が弟子達を憤っていますが、それは、彼らが子を連れてきた人々とその子にとって何が一番大切なのかを考えなかったこと、自分達の判断で相手を裁いてしまったからで、それが理由です。

 イエスは、弟子達が彼らをたしなめたのを見て憤りました。子供を自分の所に連れて来た人々の思いを、彼らが正しく受け止められなかったからです。自分達を含め、主の側にいる者の思いだけを大事にしたからです。人は相手と自分の違いに我慢できなくなると差別し、疎外します。子供社会にもそれは有り、子供達の言動の方が配慮や遠慮が乏しく、残酷な場合すらあります。主が「神の国はこのような者達のもの」と言ったのは。子供が純真無垢だからではありません。子供達がご自分に近づくのを弟子達が阻んだからです。

 主イエスに触れて頂こうと人々が子供達を連れて来たのは、奇跡を行い、教えを説く主が、求める者に豊かな祝福を与える力有る方と信じたからです。主は彼らの思いに応えると共に、この機会を用いて、人々が不安と期待の入り交じった思いで求めている神の国に入ることについて教えました。それは今日の箇所の後に出てくる人のように、ユダヤ人は誰もが神の国に入りたいと思っていたからです。私達も同じです。何故なら、神の国では永遠に神と共に、安心して生きられるからです。しかし神の国に入れるには条件があります。主は、神の国に入れるかどうかは、自分達次第だということを子供を抱き、見せることで彼らに教えたのです。私達も救われたいと願い、教会にいます。主はその私達に子供達を見せて、私達が神の国に入る方法、救われる方法を教えています。教会に子供がいることは素晴らしいことなのです。

 子供から何を教えられるのでしょう。子供は親の事情に関係なく自分の要求を通そうとします。叱っても言うことを聞きません。何故でしょうか。親しか要求を聞いてくれる人はいないと知るからです。親の方が根負けして子供の要求を聞くことも有ります。逆に、子が親の拒絶に納得することもあります。この親子関係が信仰にとって大事なのです。私達はだから神を「お父様・父よ」と呼びます。主は「神の国はこのような者達のもの」と言います。子供の頃を思い出してみましょう。その頃、親に求めたような思いで、必死になって、縋り付くように神に求めれば良いのです。教会に子供がいるなら、神と共に生き、神の祝福を豊かに受ける為の手本が目の前にいるのです。教会に子供達がいるのは素晴らしいことです。子供達を大切にしましょう。そして、神よ、教会に子供達をもっと与えて下さいと神に求めていきましょう。