メッセージ(大谷孝志師)
必要なものを求める
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年1月12日
マタイ6:11 「必要なものを求める」 牧師 大谷 孝志

 毎日必要としているものがどれほどあるか考えてみよう。衣服、食物、家庭や学校、職場で使う物と数限りなくある。でも、有って当たり前と思い、それらが有ることに感謝の念を持たずに過ごしていないか。人生山有り、谷有り、思いがけない環境の変化に、有って当たり前の物がなく、できて当たり前の事ができずに動揺し、無くなってその有り難さに気付くことも有る。いつでも、生きる為に必要なものが与えられていることに気付いていること、感謝していることが大切。

 主は祈りについて教えた時、始めに霊的な事柄、神との関係を正しいものとする為に必要なことについて教えた。第二に日常的な事柄、日々の生活の中で必要とするものの為に祈ることを教えた。その始めに日用の糧を求めよと教えたのは、私達が自分が生活する為に必要な物に対して無頓着になっているから。主は私達のそのような弱さを知るからこそ、先ず日用の糧を求めよと教えたと覚えよう。

 以前、教会学校の生徒に、「日用の糧って何だと思う」と聞いたら、その子が「日曜日のお話のことでしょう」と答えた。別な子が日曜の「かてい」と糧を長く伸ばすので聞いてみたら、「かてい」は自分の家庭のことだと思い、そのつもりで祈っていたと言った。祈りに限らず、言葉というものは難しいものだと思う。

 主は日常生活の為に、まず毎日必要な糧を求めよと教えた。糧とは何だろうか。単純に考えれば食物だが、主がここで教えているのは、ただの食物のことではない筈。先の教会学校の生徒の話ではないが、御言葉も糧の一つと言えるのでは。御言葉は霊の食物と言えるから。主が日毎の糧を求めよと教えたのは、これらのものは求めることによって与えられ、与えられることによって自分のものになるのだという当たり前のことに気付かせる為だったと私は思う。必要なものを自分のものとして食べ、肉と霊の糧として用いうるから私達は生きていられる。無頓着でいると、人は傲慢になってしまう。だから主は、自分に必要なものが神に与えられていることを人に気付かせる為に、このように祈れと教えた。私達が人生において、この事に気付き、神無しには生きていけないことを知ることが最も大切。更に、神は私達の求めに応えて、必要なものを十分に与えていると知ることが大切。しかし十分に与えられていても、何か足りないものがあると考えてしまうのが人間。その足りない何かが自分のものになるかどうかがとても心配になり、不安に。主が求めなさいと教えたのは、求めれば与えられる経験が大切だから。神は私達を愛し、守り育てて下さり、肉親の父以上に我が子のことを考え、成長を願っている。だから、私達は神を信じ、神に委ねて、ただ求めれば良いのだ。

 主が必要なものを求めよと教えたのだから、私達は遠慮しないで求めれば良い。それだけではない。神に求めることが、神を私の神と信じることであり、神に心から従うことである。神は、私が生きる為に今日必要なものを与えると信じよう。更には、私達が信じている神だけが与えられる方であることを信じて求めよう。

 最後に主が「今日も与え給え」と祈るよう教えたことも、私達の信仰生活において重要な意味を持つ。「今日も」と祈れることは素晴らしいこと。何故か。昨日、或いは過去に与えられて、その恵みを味わっているからこそ言える言葉だから。「我らの日用の糧を今日も与え給え」と私達は主の祈りを祈る度にこう祈っている。全てを与え、全てを支え導く主が、私達の祈りを聞いている。教会に連なる兄弟姉妹と共にその方に祈っているとの思いを新たにし、共に祈りつつ歩み続けよう。