メッセージ(大谷孝志師)

神に知られている私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年1月19日
聖書 ガラテヤ4:8-11「神に知られている私達」  大谷孝志牧師

 新年のテレビを見ていたら、やたらと各地の初詣の様子の中継がありました。アナウンサーやリポーターの言動に、本当にそれらの神仏を信じているかのような印象を受けました。初詣に限らず、神社仏閣の紹介には、言葉の端々に信仰心らしきものが滲み出てきます。それだけ神道や仏教が日本人の心の中に染み込んでいるのです。私も主を信じる前は無神論者でした。それでも、神社で鐘を鳴らしたり、彼岸などに墓参りをした時にはなんとなくではですがその神仏を拝んでいた気がします。誕生したらお宮参りで神社に、結婚式は教会で行い、死んだら葬式は寺でという人が多いのは事実です。殆どの人は誕生から死まで様々な宗教の中で生きていると言えます。日本人は宗教に寛容というか、曖昧なのです。ですから2016年の統計で、日本の全宗教団体の信者数を見ると、日本の全人口の1.4倍を超えるそうです。

 今日の聖書で、パウロは「あなたがたは、かつて神を知らなかったとき、本来、神ではない神々の奴隷でした」と言います。しかし殆どの日本人は、自分達は神々の奴隷とは考えていません。亡くなった叔父は、どの檀家でも氏子でもありませんでしたが、毎朝出勤前に神棚に手を合わせて祈り、「こうすると一日が清々しくなれるんだよ」と言っていました。「鰯の頭も信心から」と言うように、信じることによって、心が満たされ、安心できればそれでいいというのが、日本の世の中の一般的風潮なのではないかと、私は思います。

 しかしそれで本当に善いのでしょうか。「分け登る麓の道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」という古歌がありますが、そのようにどんな宗教でも同じだと思いますか。パウロは違うと言います。キリストだけが真の神で主、救い主と信じるからです。ですから他の神々を信じる人々は、神ならぬ神を信じているのだと言い切ります。この確信はどこから来るのでしょう。それは彼が主との生き生きとした出会いを経験していたからです。しかし、他の新興宗教の教祖達も、神仏的存在との出会いを体験したと教えています。そう確信しなければ、多くの信者を惹きつけられないだろうと私も思います。パウロが出会った主イエス・キリストとそのような神的存在とはどこが違うのでしょう。私には違いを説明できません。私自身がそれらの神的存在を知らないからです。しかし、私は主イエス・キリストは知っています。私達はどこが違うかを考える必要はないのです。一人一人が「イエスは私の主であり、私の神である」という事実を自分自身が確信していることが大切なのです。必要な時に「イエスは私の主である」と、確信をもって告白すれば善いのです。この異教世界の中で生きている私達にとってはそれで十分だからです。

 ここでパウロが「今では神を知っているのに、いや、むしろ知られているのに」と言うのは何故でしょう。私達が人を知る場合には、その人に会って知る場合と他人から得た情報で知る場合があります。会えばその人の情報を直接得て、その人を判断します。しかし他人から得た情報の場合は大きな問題があります。それは、他人の印象を自分が受け取ったに過ぎないからです。

 ですから、直接会ってみると、想像した人物像とは全く違い、驚くことがあり、正に「百聞は一見にしかず」です。パウロは主イエスと同時代に生きた人ですから、イエスを知っていたと思います。しかし多くの情報は他人から得たものだったのでしょう。真実の主を知らなかったから、主の弟子達を迫害したのです。しかし、迫害の熱意に燃えてダマスコに行く途中、復活の主が彼に出会い、回心し、真実の主を知り、主の為に生きる者となったのです。

 では、彼がガラテヤ人達に「今では神を知っている」と言ったのは何故でしょう。3:1で彼は「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架に付けられたイエス・キリストがあなたがたの目の前に描き出された」と言いました。「目の前に描き出された」は霊的出来事で、主が目で見える姿で現れたのではありません。彼らは御霊によって十字架の主、復活の主に会う経験をしたのです。これは驚くべき出来事です。それなのに、彼らは惑わされ、神ではない神々の奴隷に逆戻りしようとしているのです。私達も同じような状況に立ってしまう時があります。主イエスを信じたのは、信仰により主はいると知ったからです。主を礼拝するのは主が共にいると信じるからです。しかし、私達は他の人を知るようには主を知ることが出来ません。聖霊に助けられて心に思い描く以外にないからです。主の印象は人によって様々なので、同じ主を信じていても、信仰の在り方は人により違いが出ます。ですから他人の信仰生活を見て戸惑いを感じることが多いのは事実です。ガラテヤ人を戸惑わせたのは信仰と律法の問題でした。日本にはその土壌がありませんが、最初に言った、宗教に対する寛容さ、曖昧さにより、正しい信仰を保持する難しさが生じます。それだけでなく、葬儀や法事、神社仏閣の祭事、七五三や厄払い等々の宗教行事に関わらざるを得ない時があります。日本に住んでいると、それらの時が、聖書が言う「弱く貧弱な諸々の霊」を喜ばせる時になってしまうのです。

 パウロは正しい信仰から離れている彼らを立ち帰らせる為に、この手紙を書いています。その為に彼は、発想転換をさせ、全く新しい所に立たせます。自分達が神に知られていることに気付かせようとしているのです。人は自分が本当に神を信じているか不安になることがあります。私達もガラテヤ人と同様、弱く愚かなのです。私達は自分が正しい信仰の持ち主だという確信を、つまり、自分の信仰の確かさをどこに求めたらよいのでしょう。聖書にしか有りません。私達は、聖書が証しする神を、主イエス・キリストを真の唯一の神と信じています。この信仰は一方通行ではありません。御霊によって、神はその私達の全てを知っているからです。神はこの私達の信仰に目を留め、喜んでいるのです。神の姿は見えず、声も聞こえませんが、神は常に私達と共にいて、私達を見守り生かしています。私達は今、神に知られているのです。では私達の現実はどうでしょう。主が「私はあなたの為に十字架に掛かって死んだのに、それが無駄になるのではないか」と心配している私達ではないでしょうか。神以外のものに頼る必要はありません。私達は神に知られているのです。この信仰に固く立ち、神の為に自分にできる事をし、神の為に生きる者となりましょう。神は私達を豊かに祝福し、平安を与えて下さいます。