メッセージ(大谷孝志師)
天に宝を蓄える人に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年1月19日
マタイ6:19-24 「天に宝を蓄える人に」 牧師 大谷 孝志

 この世で生きていく為にはお金が必要。主イエスもお金を持たずに生活していた訳ではない。しかし、主イエスと私達の違うところは、お金がなければ生きられないとは考えず、お金は必要に応じて与えられると考えていた点。私達は先が見えないと不安になる。「主に全てを委ねて」と祈るが、現実には神に委ねきることはなかなかできない。どうしても、自分の生活は自分で何とかしなければと考えてしまう。しかしそうすると、何とかしようとするものに縛られてしまうことはないか。何とかしたいと思えば思うほど強く縛られてしまう。そしてこれは違うと思いながらも、仕方がないと諦めてしまうのが私達の現実ではないだろうか。

 神は私達を愛し、必要なものは必要な時に与える方と信じてはいる。でも本音は、信仰だけでは食べて生けない。神に委ねる大切さは分かっていても、明日の生活費はどうしたらいいのかと心配になってしまう。それが人間だと言えばそれ迄だが、主イエスはそのような私達に、全てを父なる神に委ねよと教えている。

 その通りにしたら、私達は飢え死にしてしまうだろうかと心配する必要はない。私達が信じる神は生きて働いている。サタンはこの事実を忘れさせよう、目を反らさせようとし、金や物がなければ生きていけないのではと考えさせるだけ。しかし金や物が豊かに有っても、それは盗まれ、使えば消えるもの。「金が増えると心配も増える」と言う人が。金が無くてはと思うから、その金が無くなったらどうしようと心配になる。主が「自分のために、天に宝を蓄えなさい」と言うのは、決して無くなることがない無い天に宝を蓄えよと言うのでは無いし、天国にはそのような金庫があると言うのでもない。主はこの地上で金に頼るのは無意味なだけで無く、違うと教えた。理由は「あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もある」から。地上の宝に目を奪われると心も奪われてしまう。その時、私達の目は神から離れ、心も神から離れてしまうから。だから主は、弟子達を福音宣教に遣わす時、胴巻きに金を入れていくなと命じた。自分を受け入れ、食べ物を与える人の家に留まれと言い、お金の心配をするなと命じた。この主の言葉は、福音宣教に遣わされる者だけに限らず、全ての信徒に言われていること。でも、そんな世間離れした生き方は私にはできないと思う必要は無い。この生き方は、決して不可能では無いばかりか、私達の人生を光り輝くものにする生き方。主ご自身がこの生き方を全うした。主が神の子で、私達人間とは違う方だったからか。

 確かに主イエスは私達とは違う方。しかし、神を信じる者にはどんな事でも出来ると主は言う。主の御言葉と生き方に忠実に、誠実に生きること、それが主を信じること。主は私達に不可能な生き方を示しているのではない。私達にも出来る生き方だからこそ。主がその手本を示している。主が私達の模範となっている。

 主イエスはここで、宝や財産のことだけを言っているのではない。私達が本当に大切にすべきもの、頼るべきものは何かを教えている。そして、私達はどんな生き方を選び取ったら良いのかを教えようとしている。父なる神に全てを委ね、心から仕え、神に喜ばれることを第一にせよと教える。しかも私が生きたようにあなたがたも生きてご覧なさいと模範を示して。天に宝を蓄えるとは、天の金庫に救いの保証金を蓄えることではない。自分の人生を神に全て委ね、神第一に生きる事、主イエスのように生きる事。それができる者とする為に主は世に来て、十字架に掛かって死に、復活して私達と共にいる。天に宝を蓄える私達になろう。