メッセージ(大谷孝志師)

空しさに負けない信仰
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年1月26日
聖書 伝道者の書7:1-14「空しさに負けない信仰」  大谷孝志牧師

この伝道者はこの世で起きている事についてその理由と目的を真剣に見極めようとしています。今、日本に生きている私達の考え方とは大分違うので、読んでいて戸惑う事がかなりあります。「技術は発達し、生活は便利になっても、人の心や考え方は余り変わらない」と言った人がいます。人間関係の中で起きる事は昔も今も余り変わりが無いように私も思います。この伝道者はこの世の様々な事柄の実態と本質を徹底的に見極めようとしています。彼はとても優れた人物です。しかしその彼にしても見極めきれないのです。その苛立ちに似た思いが彼の「空しい」という言葉に表れているのです。

 私達も人生に空しさを感じてしまうことがあります。思い掛けないことが起き、自分にはどうにもならない現実を突きつけられた時がそうです。その無力感が空しさを産むからです。神、イエスを信じています。神は最善の事をして下さっています。耐えられない試練は与えられません。逃れる道を与えて下さっています。何故なら、神は私達を愛しているからです。しかし私達は信じていても、神がいるなら何故と思うと、空しさを感じてしまうのです。信じていても、どうにもならなくなることがあるのが現実だからです。しかしその私達でも空しさに負けずに生きることができると伝道者はここで教えています。私達もこの「空しさに負けない信仰」を持てば良いのです。

 伝道者も空しいを連発しますが、空しさに負けていません。彼も神を信じているからです。13節で「神の御業に目を留めよ。神の曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか」と言い、14節で「これもあれも神のなさること。後のことを人に分からせないためである」と言います。彼は人と神の違いをはっきりと認めています。この自分は神の支配下にあるとの信仰が、私達がこの世の中で、空しさに負けずに、しっかりと生きる為に必要なのです。

 この伝道者の言葉を見ていきます。彼は主の守りと導きを感じています。生まれたことを感謝しています。ですから、ヨブのように「生まれた日を呪い、死んだ方が良かった」とは考えません。「死ぬ日は生まれる日にまさる」と言いますが、これは彼が死を肯定し、積極的に考えているからではありません。人は死が現実なるまでは、生について深く考えようとしないからです。ですから彼は、祝宴に行けば今を喜ぶ人々がいて、楽しくなるが、そこに人生について学べるものは何もないと言います。逆に、喪中の家に行けば、死に直面した人々の中で命や人生について深く考えられるので、その方が良いと言います。悲しみが笑いに勝るというのも同じです。笑いは人に人生を適当に考えさせ勝ちですが、悲しみで顔が曇る時、人は自分の命や人生について深く考えるので、顔が曇って見えてもその人の心は良くなるからだと彼は言います。普通の人が見過ごす事を彼は見極め、その中に真実を見抜きます。

 知恵ある者と愚かな者についても同様です。叱責されることは物事を知り、経験豊かな人からでも嫌なものです。でも、楽しいだけで満足している人の歌を聞くよりは遙かに良いと彼は言います。中身が無く空しいだけからです。

 しかし知者だからといってその人に安心してはいけないと彼は言います。人である以上弱さを持つので、単純に迎合し、無条件に称えていると空しい結果になる事があるからです。知者でも虐げや賄賂で理性を失うから過大評価すべきではないからです。要するに人に頼ってはいけないのです。だから、この世で起きた事は、始まった段階で軽々しく判断せず、終わりの時にそれ迄の事を整理し、意味や価値を評価すべきだと言います。「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と考えても仕方がないのです。この事は神の御心によると信じ、受け止め、従えば善いのです。全ては御業なので、人には変更も矯正も不可能です。ただ御心として従う以外にはないと彼は教えます。この世に起きている事の意味や目的は、私達人間には分かりません。まして先の事は分からないのは当然です。でも神は正しい方、善を行う方なのです。全ての事には神の意味と目的があると信じれば良いのです。ですから彼は、全ては神の御心として受け入れ、順境の日には幸いを味わい、逆境の日には慎重に考えるようにすれば良いと言います。そこに真の平安があるからです。

 そうは言っても、正しい人が正しいのに滅び、悪い者が悪を行いながら長生きするのを見ると、私達も神は何を見ているのかと思います。神が正しい方と信じていても、聖書的ではない人、自分の信仰とは違うと思う人を見ると、空しさや苛立ちを感じてしまいます。中には、教会から離れてしまう人もいます。それは神が喜ばれません。間違った決断だからです。何故なら自分の正しさや知恵に頼り過ぎているからだと指摘します。逆の事も言えます。直面した問題を何をしても無駄と放り出し、人に悪者、愚か者と思われても、波風を立てることよりましと考える場合です。それはただ逃避しているだけに過ぎません。ですから彼は「神に喜ばれる者になろうとする思いと自分を喜ばせようとする思いの両方をしっかり掴んでいなさい。」と言います。信仰者であろうとして、人の言葉をいちいち心に留めると裁くことに繋がり、自分も裁かれる結果になります。信仰者は、神が支配するこの世界の中で、神の圧倒的力と知恵を感じながら、自分の思うままに生きていれば善いのです。信仰者、時に不信仰者の自分を素直に認め、受け入れていれば善いのです。

 彼は一切を自分の知恵で見極め、自力で正しい信仰者になりたいと思いました。でも無理な話でした。彼は知恵と道理を学び、真理、真実と思えるものを探し求めました。彼は世の愚かさの悪と狂気の愚かさに我慢できなかったからです。しかし彼はその理知的探求の中で大切な事実を見出したのです。その事実は私達にも当てはまる事です。「神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めた」ということです。被造者の自分を認めながらも、自力で神の真実を見極めようとしていた彼の自虐的表現とだ言えます。

 確かに世の中には理不尽なことが沢山あります。悪魔はそれを使って私達に信仰の空しさを感じさせようとします。自分が納得できる正しさを自力で獲得しようとすると私達は空しさの虜になり、心が疲れてしまいます。全てを神に任せ、神を信じ、心をしっかりと神に向けていましょう。心を疲れさせる空しさに負けずに、希望を持ち、着実に一日一日を歩むことが出来ます。