メッセージ(大谷孝志師)
神を第一にする人に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年1月26日
マタイ6:9-10 「神を第一にする人に」 牧師 大谷 孝志

 大人も子供も教会員も求道者も皆が同じ主の祈りをする。多少訳は違うが全世界の教会も同じ祈りをする。母はクリスチャンではなかったが、キュクリッヒという女性宣教師の家庭集会に出席していて、私は子供の頃、母の方針で父と共に食前に主の祈りをしていた。主の祈りは誰にでもできる神に喜ばれる素晴らしい祈り。しかし、余りにも簡単で、いつも祈る為、意味を十分に考えずに祈る危険性がある。私自身、祈るのでは無く、言っていたに過ぎなかった気がする。今でも祈りながら別の事を考え、祈り流している自分にはっとさせられることがある。

 主の祈りは「天にまします我らの父よ」という神への呼びかけで始まる。祈祷師などが呪文を唱えることがある。彼らは呪文自体に力があると信じている。しかし、主の祈りは呪文のように、その言葉自体に力が秘められているのでは無い。私達が信じている神に呼び掛ける為の言葉。少なくとも目の前にいる神、私と共にいる神に呼び掛けていることを意識しつつ主の祈りを祈ることが大切。

 主イエスが先ず神に呼び掛けるように教えたのは、私達にとって神とのしっかりとした関係を持つことが必要だから。なぜなら神は私達にとって唯一無二の方。そして、私達の求めに応え、必要且つ十分なものを与える方。神は私達を愛し、常に見守り、必要な助けも与えている方。そして、この方以外に神はいないと信じるから。私達にとって祈り求められる方は、神しかいない。だから神に祈る。

 しかし、私達は何故神に祈れるのだろう。それは神が私達の祈りを聞いていると信じるからだけでは無い。私達が神の支配する世界、神の国にいるから。言葉を換えて言うなら、私達が神の子供、神の家族だから。神が私達の霊的意味での父親だから。神が私達の思いを知っていると信じるから、だから私達は神に祈れる。それだけでは無い。主は私に繋がっていなさいと言うが、私達が父なる神に繋がっているからこそ私達は神に祈れる。この事を心にしっかりと刻んでいよう。

 このように私達は素晴らしい神を信じている、だから神としっかりと繋がり、豊かな恵みを戴こう。その為に、神を第一にして信仰生活を歩んで行く者となろう。では何故、私達は「天にまします我らの父よ」と祈れるのだろうか。言うまでもなく、主イエスが十字架に掛かって死に、アダムとエバがエデンの園を追放されて以来絶たれていた神との関係を回復し、全ての人に神の子となる道を開いたから。だから私達は神を私達の父と親しく呼び掛けられる。そう呼び掛けられることを神が喜ぶ。神は、私達一人一人がご自分の子となり、父と呼ぶようになるのを待っていたから。その為に、神は御子イエスを世に与えた。私達は主の祈りで神を父と呼ぶ為に、神自らが大きな痛みを味わったことを心に刻もう。先ず、神が私達を子として愛して下さった。その愛の故に私達は神の子としての栄誉を受けている。私達は神の国に生きているが、この世という人間社会の中で生きている。だから家族があり、友人関係、地域社会の人々との関係から離れては生きられない。時として、その人々との関係が神との関係より上になることがある。しかし、私達は何故この世に生きているのかを考えよう。神が私達に命を与え、この世に生きる者としたからではないか。神が私達に生きる力と知恵を与えているからではないか。この世の人々との関係を優先させなければならない場合も当然出てくる。でも、神との関係を第一にして、その上で自分のなすべき事を決める者となろう。それが人としてあるべき第一の事だと心に刻んでいる者になろう。