メッセージ(大谷孝志師)

愛によって働く信仰者に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年2月2日
聖書 ルカ10:25-37「愛によって働く信仰者に」  大谷孝志牧師

 私達はイエスを真の神、主、救い主と信じてこの教会に来ています。そして、主は目に見えないけれども、ここに共にいると信じ、礼拝しています。主は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言いました。ですから、私達が集まっているここは神の国です。しかし、世の多くの人々はイエスが主、救い主であること、この世が神が支配する神の国であること、実は地上のこの教会が目に見える神の国であることを知りません。主イエスの時代の人々も自分達が実は神の国に生きていることを知らなかったのです。ですから神がこの世を支配していることを示す為に、神がいなければできない数多くの奇跡をしました。奇跡を目撃した人々は神は素晴らしいと、神を褒め称えかした。主イエスがいるところに神が共にいて、働いていると知ったからです。人々に自分達が今神の国に、神が支配する世界にいると気付かせたのです。主はそれだけでなく、譬話の中に様々な人々を登場させ、それらの人物を通して私達に信仰生活の在り方について分かり易く教えました。

 今日はその譬話の一つ「善いサマリア人の譬話」です。ここにはサマリア人、強盗達、強盗に襲われた人、祭司、レビ人、宿屋の主人が登場します。主は、律法の専門家に「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」と聞かれ、この譬話をしました。彼は、永遠の命を受け継ぎ、神の国に入るには、神に喜ばれ、受け入れられる人になれば良いと、頭では分かってはいました。ですから、主に聖書に何と書いてあると聞かれ「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、自分の神、主を愛しなさい」また「自分の隣人を自分自身のように愛しなさい」とありますと答えました。主は彼に「あなたは分かっているのだから、それを実行すれば良いのですよ」と言います。すると彼は「私の隣人とは誰ですか」と尋ねました。これは聖書にあるように、自分が正しいことを示そうとする為にした質問です。彼は、自分の正しさをイエスに認められ、自分がイエスの教えに従う者と見られたくなかったのです。律法の専門家達は、イエスが教える神の国の福音では神に喜ばれる者になれないと反発していたのです。最初の質問も「イエスを試みようとして言った」のです。それに当時は隣人がどのような人を指すのかの議論が盛んに行われていました。その議論にイエスを引き込み、論争することで、自分がイエスの弟子ではないことをはっきりさせようとしたのです。

 彼の問いへの答えが「善きサマリア人の譬え」です。しかしイエスは、彼に隣人とは誰かを示していません。逆に、サマリア人と祭司とレビ人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うかと問い掛けたのです。ユダヤ人にとって「隣人」は心の繋がりを持てる他人、同胞、兄弟を意味しました。ですから聖書の言葉に従い、祭司とレビ人は強盗に襲われ、半殺しにされた人の隣人にならなければならない相手でした。でも、サマリア人は違いました。ユダヤ人は彼らをユダヤ教徒とは認めなかったので、自分達には彼らの隣人になる義務はないと律法の専門家を含めユダヤ人は考えていたからです。

 しかし主はこの譬えで、神の御心は、誰に対してでも自分がその人の隣人になることですと教えたのです。それだけでなく、自分が助けを必要とする人の隣人になろうとする事が大事で、その人を神は喜ばれると教えたのです。

 さて私達も、周囲に自分の助けを必要とする人がいると気付いたことがあると思います。私達は全てが御心によって起きていると信じるので、その時事柄を前向きに受け止めて、主の助けを期待して適切に対処できる筈です。しかし人は、他人が自分の助けを必要とすると思った時、それを御旨と受け止めずに見過ごす弱さを持っています。ですから、人の弱さを知る主は彼の問いにこの譬話で答え、強盗に襲われた人の隣人になったサマリア人のように、相手に必要な事をし、その人の隣人になることが必要と教えたのです。

 さて、この譬話は「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるか」の問いの答えですが、「誰にどうすれば永遠の命を受け継げるか」を教える話ではありません。彼は聖書に答えがあると知っていたし、それを行っていました。しかし受け継げるかどが不安だったのです。彼が聖書の言葉を自分なりに解釈し、今の自分は神に喜ばれる者と自負していたからです。彼に限らず私達も同じような弱さを持ちます。人間なので御心は推測する以外にありません。ですから、これは神に喜ばれる事かどうかを自分で判断して行っています。彼も、自分で判断するしかないから、不安を拭いきれないでいるのです。

 強盗に襲われた人はユダヤ人とは書いてありませんがユダヤ人です。その人は服を剥ぎ取られ、殴られ、半殺しにされました。彼は他の人の助けを必要としています。そこに一人の祭司が通りかかったが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じようにレビ人も彼を見ると反対側を通り過ぎてしまいました。彼らは神に仕え、ユダヤ人の中でも特に聖書の教えを大切に守る人達です。この人にとって、同胞、兄弟、隣人でした。それなのに、彼を隣人扱いせずに見捨てたのです。しかし、ユダヤ人と犬猿の中のサマリア人は、彼を見て可愛そうに思い、応急措置を施し、宿屋に連れて行き介抱しました。その上、宿屋の主人に二デナリを渡し、彼の介抱を自分の責任にしたのです。主は彼に「誰がこの人の隣人になったと思うか」と問い掛けます。すると彼は「彼に憐れみ深いことをした人」と答えました。何故サマリア人はこの人の隣人になれたのでしょう。自分の助けを必要とする人だけを見たからです。自分も強盗に襲われるかも知れない、彼に関わる事で自分の仕事にマイナスが生じるかも知れないと考えなかったのです。ここが祭司とレビ人との違いです。彼はこの人を自分の隣人として自分自身のように愛したのです。彼はこの人の隣人になったのです。ですから主は彼に、「この人の隣人は誰ですか」と聞かず「誰がこの人の隣人になりましたか」と聞いたのです。

 私達が家族や友人に主イエスが救い主だから信じて欲しいと思っても、相手と距離を置いて考えているだけでは、相手に福音を伝えられません。福音が必要だと思ったら、その人の隣人になる為に、相手の懐に飛び込っましょう。心を相手に寄り添わせましょう。それによって主イエスこそ私の助け手、問題の解決者と知ることができ、その人が主の愛の内に生きる人になれます。