メッセージ(大谷孝志師)

幸福への道案内人に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年2月9日
聖書 ヨハネ14:1-14「幸福への道案内人に」  大谷孝志牧師

 まだ娘が小さい頃でしたが、子供を連れて公民館に行く途中で、二度道を聞かれたことがあります。初めは近所の人の名を挙げて、この人の家はどこかと聞かれ、次は郵便局はどこかと聞かれました。私が幼い子を連れていたので、このあたりに住んでいる人だと思ったか、優しそうな人に見えたのかもしれません。或いは昼日中子供を連れて歩いているので、暇そうに見えたのかもしれません。何故こんな事を話し出したかと言うと、世の中には実際に道に迷っている人だけでなく、自分の人生についても、進むべき道、行くべき所や目標が分からなくなっている人、人生の様々な問題についての答えを求めている人が意外に多いのではないかと思うからです。しかし私も含め、私達はそれに応えられないでいるのではないでしょうか。主は今日の聖句の中で「私が道であり、真理であり、命なのです」と言います。私達は、主は今も生きて働いていて、人生の意味を教え、直面している出来事にどんな意味があるのか、今何をすべきなのかを教える方であると、聖書と教会の交わりを通し、知らされています。ですから主の御言葉が事実と知っています。私達は、人生において最も大切な真実を知っているのです。それなのに、何故、世の人々は私達にその人生の秘訣を尋ねて来ないのでしょうか。

 私が近所に住む人に見えたので、この辺りに詳しい人で、自分が知りたいことに答えてくれると思ったのでしょう。世の人々が、私達が自分が知りたいと思う情報を持っていると思わなければ、私達の所に尋ねては来ません。パウロはⅡコリント2:14で「神はいつでも…私達を通してキリスト知る知識の香りを、至る所で放って下さいます」と言う。私達が人生の道について詳しいと他の人に分からなければ、助けを求めていても、聞く気にはならないのではないでしょうか。しかし自分自身を振り返って見ると、それ程人生の達人とも博識とも言えません。世の人に自信を持って教えられない気がしまう。しかしよく考えて見ると、世の人に道や方法を示すのは意外に簡単なのです。私達は、博学、博識の人に理論的に教えられて人生の真理を知った訳ではありません。ただ「私が道であり、真理であり、命なのです」と言う方、主イエスに出会い、主のこの御言葉が真実だと知ったのです。世の人々がまだ知らないこの人生の真理を知っただけなのです。理屈ではなく、主イエスとの出会いによって知ったのです。何故主イエスと出会えたのでしょうか。キリスト者と関わりを持ったからで、教会に来たからです。教会の人達が信じている主イエスについて知りたいと思ったからです。どうしてかと言えば、興味を引かれるもの、知りたい、信じられたら信じたいと熱心に思わせるものが教会にあったのではないでしょうか。世の人々が、私達が感じた事を感じられるような私達になれるなら、救われる人々がこの教会に与えられます。自分の弱さを感じて、臆病になる必要はありません。聖霊が私達を助けてくれます。信じましょう。主イエスも「信じる者には、どんな事でもできるのです」と助けを求めた父親に言いました。信じて助けを求めればよいのです。

 さて、私に道を尋ねた人は、この人に道を聞いても迷惑にならないだろう、聞いたら教えてくれそうだと思ったのだと思います。相手がこの人は自分を受け入れてくれそうだと感じたから、聞く気になったのではないでしょうか。私達が助けを必要とする人、困っている人に、いつでも心を開く姿勢を持っていることが大切なのです。月二回オープンチャーチタラントをしています。この地域の人々の地の塩、世の光となる務めを主に与えられているからです。この時間の中で、教会、キリスト者を肌で感じてもらうことによって心の繋がりが出来、主イエスが道であり、真理であり、命と知って貰えたらと思ってしています。一人でも救われて、幸いな人になって欲しいと思っているからです。その為には、まずは教会に来て貰えるように、世の人々の為に門戸を大きく開いた教会でありたいと願うからです。この会に来ることによって、少しでも主に近づいて貰えたらと思っています。まだ主を知らない、教会について限られた情報しか持たない人々に、主を信じる素晴らしさを伝えられるようになりたいと思わないでしょうか。私達がそう願い、そう心掛ければ、パウロが言うように「神はいつでも…私達を通してキリスト知る知識の香りを、至る所で放って下さいます」。神は、この教会に招いた私達が世の人々の人生の道案内人になることを求めています。私達にはそれが出来るからです。

 私達は「自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを」知っています。自分の信仰生活を振り返る前に、主の弟子達のことを考えてみましょう。彼らは主を通して神がいることを知りました。主がする事が、主の内にいる父なる神がしていなければできないことだったからです。私達も教会に来て、イエスを主、救い主と知りました。主に頼り、主に任せることで勇気と希望を与えられました。それだけでなく、途方に暮れ、主がいなければ自分が崩れ落ちたかも知れない経験を何度かしたのではないでしょうか。そして主に必要なものが必要な時に与えられる経験をし、主が私と家族、知人と共にいるからと感謝してきたから、私達は今ここに居るのです。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」との言葉は真実です。主イエスは真の神であり、私達の人生そのものを抱え込み、支える方なのです。その事を、人は教会の働きを通して、つまり主イエスを信じる人々の働きを通して知ります。世の人々は、教会に来て、教会の人々と関わりを持つことによって真に幸いな人になれるのです。だから私達は世の人々の幸いへの道案内人なのです。主は私達にそれができる機会を与えています。教会に来れば、主イエスを信じれば幸いな人になれると伝えましょう。私達に出来ます。主が「私を信じる者は、私が行う業を行い、更に大きな業を行う」と言うからです。更に「私が父のもとに行くから」と言います。これは主は殺されるけれど、復活して彼らと共にいるという意味です。その主が、彼らに「あなたがたが私の名によって求めることは、何でもそれをしてあげます」と約束します。これは今、この世に生きる私達への約束の言葉でもあります。主は私達と共に、ここにいます。主が私達の働きを必要とし、助けて下さいます。私達も世の人々の「幸福への道案内人」になれます。信じましょう。