メッセージ(大谷孝志師)

人ゆえの限界の中で
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年2月16日
聖書 伝道者の書8:1-17「人ゆえの限界の中で」  大谷孝志牧師

 人は神が創造した生物の中で、唯一知恵有る存在です。自分の行動の意味を言語により説明できる生物は人の他にはないと言われるからです。確かに人は優れた知恵の持ち主です。しかし、その知恵があるからと言って、人が優れているとは言えないのではないでしょうか。この伝道者も、人が知恵を持つことを認めています。知恵は、物事の真意を理解させ、他の人に好感を与え、気品を示す価値を有するからで、「その人の顔を輝かせ、顔の硬さを和らげる」と言います。しかし知恵があるだけに、相手の気持ちや事態の深刻さが分かるだけに、多くの悩みや悲しみに囚われてしまうのも事実なのです。何故でしょうか。それは世の極めて個人的な事から、世界情勢に至るまで、人生の全ては世の最高の知者でも洞察仕切れないほど深い淵のようなものだからです。17節で彼が言うように、全ては計りがたい神の業なのです。ですから彼は、神を信じ、神に従う者であるなら、王の命令を守れと勧めます。パウロの「上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威は無く、存在している権威は全て、神によって立てられている」の言葉にも通じます。言い換えるなら、王への反抗は神への反抗になるからです。だからするなと言います。ですから王に服従する者になり、そうするなら王に受け入れられ、守られるので、災いに遭いません。それだけでなく、全ては神の御業と見極められる知者は、全ての事に相応しい時があるのを知り、行動できるからです。

 彼が言うように、神は人を真っ直ぐな者に造り、全てを理解し得る者としました。しかし人は人であり、神ではありません。最も知恵ある者でも、将来を識別できません。何がいつ起こるかを告げられません。それが人間です。「風」<ルーアハ>は「霊」「息」とも訳される言葉です。ここでは霊の働き、御心と理解した方が良いと私は思います。彼は生きている人を支配する力、死に付いても自分の考えを言います。人は死に対しても無力なのです。どんな知恵ある者、神に立てられた権威ある王でも、人である限り、死を統御できません。正しい人でも悪い人でも、死に何の効力を持てないのです。人が生きるこの世は、人でなく神が支配する世界だからです。「神の裁きは知り尽くしがたく、神の道は何と極めがたい」としか言えない世界だからです。

 しかし彼は、神が支配している世界だからこそ、問題があると言います。王すなわち他者を支配する者が、他者を犠牲にして権力を行使しているからです。人は罪人です。だから、権力の行使は常に破壊的力を持ってしまいます。彼は王への恭順を勧めましたが、それは、神が与えた権威だけが理由ではありません。彼は徹底して世を見極めた結果、世には過酷な虐げがあると知ったのです。つまり、悲しい事に弱く貧しい人の為に、危険を覚悟で権力に立ち向かおうとする人は極めてまれで、多くの人は保身に走ってしまう事実を知ったのです。何故なら、世の権威者は自分への反抗を自分への冒涜と見なすからです。権威、権力を持つ者への反抗は、自己を破壊することに繋がってしまうのです。王への恭順の勧めは、彼の諦めの表明でもあります。

伝道者は、神は全てを知り、御心のままに全てを行っていると知っています。だからこそ、この世に起きる全ての事を一心に見極めようとしたのです。何故なら、全ては神の御業であっても、神は人が思いのままに生きる自由を与えているからです。人は神ではありません。ですから、自分の見た事、理解した事を自分で判断して行うしかないのです。人が人を支配するので、人が人に災いを齎してしまいます。人の行為を人が判断するので、悪い事でも直ぐには悪と宣告できません。だから、伝道者は人の心は悪を行う思いで満ちてしまうのは仕方が無いことだと見抜くのです。そして、どんな悪を行っても神に裁かれずに、長生きをする悪人がいるのも事実です。しかし、悪を行う者は神を恐れていないから悪い行いができるだけだとも彼は見抜きます。悪人が悪を行っているのは事実なので、神はその悪人を褒めないし、喜びません。ですから、悪人は決して幸せにはなれないと、彼は見抜いています。

 逆に、神を恐れる者は、自分の行いに対する神の評価を恐れるので、神に認められる生き方をしようとします。だから、神を恐れる人は幸せになれると言います。しかし現実には彼が言う通り、正しい人が正しい行いに対する報いを受けず、悪人が受けるような報いを受けることがあります。逆に、悪い人が正しい人が受けるような報いを受けてしまうことがあるのも事実です。

 彼は、神は義なる方、善なる方、愛なる方と知っています。その神が支配する世界なのに、こんな事が起きているのは、彼にすれば空しいだけです。しかし彼はその空しさに負けません。そこに私は神を信じることの素晴らしさを見出しました。確かに人には何が真実かは分かりません。悪を行っても善を行っても結果は同じだとすれば、善を行うことによって神に喜ばれようとするのは、無意味な行為に過ぎないと人が考えるのは当然でしょう。しかしそれは本末転倒の考えなのです。彼は、神に祝福される為に善い事をするのでなく、神が喜ぶと自分が思う事をすれば善いと言います。自分の力で幸いになろうとすることは、神を自分の支配下に置くことになってしまうからです。神の為に労苦すれば幸いになると考えるのも間違いだと彼は考えます。

 自分が幸福になりたいと思えば、食べて飲んで人生を楽しめば良いのです。自分のものを神に与えられているものとして受け止め、感謝して戴き、食べて飲んで楽しむこと、これより外に人にとって幸いなことはないと彼は言います。人は、これだけ自分は神の為に労苦しているのだからと、労苦の報いを神に求める必要はないのです。それを求めると神に不平不満をぶつけ、愚痴を言ってしまうことになります。神は私達の全てを知っていると信じれば良いのです。神は私達の労苦に報い、飲み食いする糧を、安心して生きる為に必要なものを報いとして与えているから、その幸いを味わえば良いのです。

 彼は懸命に地上の人の営みを見極め、分かったのは、全ては神の御業ということです。しかし御業と分かっても、具体的にどんなもので、どうなるかを人は知ることはできません。人の知恵は有限だからです。神の領域の事については、どんなに苦労して捜し求めても見出せないし、見極められません。ですから、人としての限界の中で生きればそれで良いのだと、彼は教えます。