メッセージ(大谷孝志師)

死は別離ではない
向島キリスト教会 礼拝説教(召天者記念礼拝) 2020年2月23日
聖書 ヨハネ16:16-24「死は別離ではない」  大谷孝志牧師

 私達の教会では毎年2月の第四聖日に昇天された方々を偲び、記念礼拝を守っています。今年は、主イエスが十字架に掛かって死ぬ約一日前に弟子達に告げた言葉、主の告別説教を通して、誰もが経験する死について御言葉を学びます。主イエスが「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなる」と言いました。それは、もうすぐ主が十字架に掛かって死ぬからです。死人の体を遺体と言います。体は遺るからです。葬儀・告別の時には、遺体を見、その遺体を見て人は涙を流します。でも、亡くなった方に会っているのではありません。その人と対話できないし、感情も読み取れないからです。はっきり言えば、もはや人ではありません。主はしばらくすると自分が見えなくなるので、弟子達は嘆き悲しむと言います。主が死に、私達と同じように、彼らも生きている主を感じられなくなるからです。では何故、世は喜ぶのでしょう。神は、私達人間に自由を与えていますが、悪魔にも自由を与えています。しかし、主は悪魔の主でもあります。これは頭という意味ではなく、悪魔は主の命令を聞かざるを得ず、主が居ると自分達が勝手気ままに活動できません。主は悪魔にとって邪魔な存在なのです。だから主が見えなくなり、いなくなると悪魔は喜ぶのです。主が、暫くするともう私を見なくなるが、また暫くすると、私を見ると言ったように、主は十字架に掛かって殺され、死にました。主は復活して、今も生きて働いています。この事を主が彼らに教えているのですが、彼らには主が何を言っているのか分かりませんでした。11章で、主が死んで四日になるラザロを復活した事を彼らは目撃しています。しかしその事と主が死んで見えなくなるが、復活するので、また主に会うことができるということには結びつかないのです。だから、彼らは主が何を話しているのか分からないと呟きます。私達も主の恵みを味わった後で思い掛けない出来事に直面した時、主の愛と力を信じられず、何で自分がこんな目に遭うのかと分からなくなることがあります。

 イエスが見えなくなるのは、父なる神の元に行くからです。主が父の元に行くので、主が助け主、聖霊を遣わして下さいます。聖霊が来るので、この世が一新されます。何故なら御霊が来ると、主に従っている者達を全ての真理に導くので、罪と義と裁きについて、世の誤りが明らかにされるからです。この後、弟子達は御霊に満たされ、イエスが主キリストであり、神の子、救い主と知ります。そして、主を信じ切れなかった自分達の罪を赦し、神の子とする為に、十字架に掛かって死に、罪を贖い、復活し、共にいると知らされます。しかし彼らは、まだそれらを経験していません。ですから、主の言葉の意味を、互いに論じ合うことで知ろうとするしかなかったからです。

 彼らは、世に生きる見える主に教えられ、希望に溢れて生きていました。しかし、暫くすると主が見えなくなると言われ、激しく動揺します。彼らにしてみれば、想像するだけで恐ろしい事だったのです。私達はどうか。主は、今は目で見ることはできませんが、世の終わりに主に会えると信じています。

 死んだ人との別れが悲しく寂しいものであることは誰もが経験します。しかし主を信じる人は、死んだ人との関係は、その人の死で終わらないと信じられます、何故信じられるのでしょうか。聖霊にその霊的事実が確かな事だと教えられているからです。それが事実だと分かる時が必ず来ると知るので、今は静かにその時を待てます。そして、主にあって死ぬ人は永遠に生きるので死は別離ではない。その希望を持って、今を生き生きと生きられるのです。

 死なない限り人は生きています。でも、生きている人は、必ず死にます。肉体の死はこの世での人生の終焉を意味します。弟子達にとって主が見えなくなるとは、主の肉体が死に、主との別離を意味しました。主は自分の死を予言し、自分は殺されて死ぬ。しかし弟子達は私を見ると言います。繰り返しますが、肉体の死で彼らとの関係が終わらず、三日目に復活するからです。

 でも、弟子達は主が何を話しているのかが分かりません。私達は死後の事をどう考えているでしょうか。黙示録14:12には「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。幸いな死に方をするからではありません。主を信じて死ぬ人は、肉体の死後、その霊が天に昇り、神の国で永遠に生きているからです。この事を世に生きている私達は「永遠の眠りについている」と言います。そして神が定めている世の終わりの時になると、朽ちない霊の体に復活します。そして新しく到来する神の都で父なる神と御子キリストと共に永遠に生きるのです。その時、主を信じて世に生きている人は、その朽ちる肉の体が朽ちない霊の体に甦らされます。そして、再び先に天に召された人々と再会できます。そうパウロは第一コリント15章で教えています。

 しかし今は、死後の人々がいる世界とこの世とは分断されています。行き来できず、生きている者と死者は対話できません。今世に生きている者からすれば、死者は眠っているのと同じです。ですから昇天は永眠とも言います。

 この生と死の霊的事実は目に見えない事実であり、信じるしかない事です。その事を私達が信じられるようにする為に、父なる神は御子イエスを復活させたのです。弟子達は主の十字架の死後、不安と悲しみの中にいましたが、主が来て、彼らに「平安があなたがたにあるように」と言いました。弟子達の悲しみは、主が預言した通り喜びに変わりました。私達は先に天に召された人々を記念して主を礼拝しています。共に生きてきた愛する人の死を経験することは、辛く悲しいことです。しかしまだ世の終わりが来ていないので、そこで立ち止まると、私達の人生もそこで止まってしまうことになります。

 生きている人は必ず死にます。主がその人の人生はここまでで十分とし、永遠の休みに入れたと信じましょう。主は私を見よ。私を信じよと言います。主が今も生きているように、先に召された人々も今も生きています。だから再会できます。その希望こそが私達を前に進ませる力になります。死に意味があるように、生きていることには意味があります。私達が生きているのは、主に生かされているからで、果たすべき務め、仕事が私達にあるからです。昇天者記念礼拝は、私達が今生きていることの意味と重さを知る礼拝でもあります。その事を深く心に刻み、死ぬ時が来る迄、今を大切に生きましょう。