メッセージ(大谷孝志師)
主を見詰めて生きよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年2月23日
マタイ14:22-33 「主を見詰めて生きよう」 牧師 大谷 孝志

 今日は、主イエスがガリラヤ湖上を歩いて弟子達の所に来たことを通して学ぶ。湖の上を歩くの不思議なこと。だがその前に、主は五つのパンと二匹の魚で女子供を除いて男だけで五千人もの大群衆を満腹にさせた。余ったパン切れを集めると、十二のかごが一杯になったと記し、この不思議な奇跡は確かに起きたのだから信じよと、神は私達に語り掛ける。私達は主イエスが十字架に掛かって死んだけれど、三日目に霊の体に甦ったと信じている。甦らなかったので今共にいないと思うなら礼拝に来ない。今も生きて共にいると信じから、主を礼拝している。しかし、世の人に、主イエスは本当に復活して今も生きているのかと聞かれて、「そうです」と言えるか。信じるのと、事実だと思うのとは違う。私達は復活した主イエスと会ったことはない。だから「そうだ」と確信を持っては言えない。しかし信じるとは、五感で確認できない霊的事実を真実と認め、受け入れること。復活の主イエスの存在を人々に示すことはできないが、自分が主が復活し、私と共にいるという霊的事実を体験しているなら、確信を持って「私はそう信じている」と言える。人がどう思うかは問題ではない。自分にとって事実は事実なのだから。

 この奇跡は空腹の状態にいた大群衆の為でもあるが、むしろ弟子達の為の奇跡である。彼らは自分達が奉仕することにより、五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人々を食べて満腹させられるという神の力を体験させられた。人々は満腹した気持ちになったのではない。現実に余ったパン切れを集めると十二のかごが一杯になった。神の不思議な力を体験するという霊的出来事を具体的、物理的に起きた事実として体験した。彼らは見えない神の臨在を信じた。神が主と共にいて、彼らを用いたので、彼らは御業を行えた。しかし、奉仕した弟子達と満腹になった群衆の驚きも感謝も喜びも記されていない。信じられないような出来事が起きたのに、何事もなかったように、その後の出来事が記される。ただ「それからすぐに、イエスは弟子達を船に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた」とあるだけ。神が驚くべき力の持ち主であること、主イエスが共にいれば不安も恐れもなく、いつも安心していられると人が知ることが奇跡の目的ではないし、そう信じることが主が人に求める信仰ではない。主は湖上を歩く奇跡で弟子達にその事を、本当の信仰とは何かを教えた。

 弟子達が乗った舟は既に陸から数百b離れ、一晩中向かい風に悩まされていた。湖上を歩いてくる主の姿を見て、怯え「あれは幽霊だ」と叫んだ。主に「私だ。恐れることはない」と言われると、ペテロは「主よ、あなたでしたら、私に命じて水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さい」言う。主が湖上を歩くのを目撃した彼は、自分にも可能と思い、主が命じるなら、人には出来ない事でも自分にできると確信したから。そして湖上を歩き始めた。しかし強風を見て怖くなり、沈み掛け、主よ助けてと叫んだ。主から目を離したから。私達には主の命令と自分の思いや考えの区別は難しい。福音を伝えようと思い、主を信じて欲しいと思っても、自分の言動で働き掛けるのは難しい。だからこそ、自分が体験していた霊的事実を心に刻み直そう。不可能と思って諦めていた事が可能になった事実を体験した筈。世の様々なものを恐れず、御力をもって私達の全てを支配している主のみを見つめ、主に必要なものを願い求めよう。人にはできないが、神は何でもできる。私達の信仰を喜び祝し、想像を超える恵み与え、私達を喜びで満たす。