メッセージ(大谷孝志師)

キリストを手本に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年3月1日
聖書 ピリピ2:1-11「キリストを手本に」  大谷孝志牧師

 先月26日から受難節(レント)に入りました。4月12日のイースター、復活祭まで、主イエスの十字架の死を心に刻む大切な時です。今日の個所は初代教会の讃美歌を引用したものと考えられています。ピリピ教会はパウロと非常に親密な関係にありました。手紙の冒頭を見ますと、彼はこの教会の人々の為に祈る度に神に感謝し喜んでいます。神が彼らを祝し、豊かな恵みを与えていると彼に伝える人がいたからです。しかし、この教会も人の群れなのです。嫉妬心、競争心、党派心が彼らの内にもあったからです。だからと言って、彼はその事で責めてはいません。皆が自分の信仰、生き方、考え方によって、福音を伝えようとしていると知っているからです。十人十色と言うように人は皆違います。「みんなちがって、みんないい」といった人がいますが、違いがあるから問題が生じ、苦しんだり、悩んだりすることはあります。でも、違いがあるから、様々な人に適した対応が出来るのではないでしょうか。教会はキリストの体です。違いはあっても一人一人は同じ体の部分なのです。ですからパウロは「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもある」と言います。主を信じて生きることは恵みですが、苦しみでもあるからです。

 パウロは、あなたがたは今、私について見聞きしているのと同じ苦闘を経験しているのだと言います。彼は、教会がキリストの体としての教会であり続ける為には、目が手に向かって「あなたはいらない」と言ってはいけないとコリント一12:21で教えました。一人一人はキリストの体の大切で、欠くことの出来ない部分なのです。しっかりと体に繋がっていられるように、配慮し合い、助け合い、支え合う必要があります。その為には「キリストのように生きよ」と彼は教えます。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」と。彼らが神に喜ばれる教会であり続ける為には、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励む」群れとなるには、一人一人がキリストに倣う者となることが必要だからです。とは言え、人はキリストにも神にもなれません。人は人に過ぎないからです。だからこそ主イエスは人となって世に生まれ、自らを低くして、十字架の死に至るまで、神の御心と計画に従ったのです。人にも私のような生き方が出来ると教える為です。それだけでなく、誰でも、私のように生きられると主が手本になって下さったのです。ピリピ教会にも自己中心、自分さえ良ければ良いと考え、悪魔に付け入る隙を与え、教会を混乱させ、分裂させる危険がありました。悪魔の誘惑に陥ったら、教会が教会でなくなってしまうからです。その為には、主イエスが自分を空しく、低くしたように、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従えば良いと彼は教えます。自分には不可能と諦める必要はないのです。なぜなら彼が言うように「神は御心のままにあなたがたの内に働いて志を立てさせ、事を行わせて下さる方(3:13)」だからです。

 パウロは、教会が神の教会であろうとすることが大事だと考えています。神がそれを望むからです。その為には、自分を含め教会に連なる一人一人が、教会は神のものだと自覚することが必要です。教会に来て、主イエスを信じる者となることによって、私達は幸せな者になれました。教会が私達の為にあったからです。神が全ての人を愛し、主を信じて救われ、幸いな者とする為に教会があったからこそ、今の私達があります。しかし世には、神がこの教会に招いているまだ主を信じていない多くの人々がいます。教会はその人々の為にあることを、私達がいつも心に刻んでいましょう。神のものである教会の一員として、私達が世に生きる時、教会が地の塩、世の光となることができます。人々にここに救いの道があると示せます。キリストは全ての人の救いの為に神としての自分を捨てて人となり、私達の手本となったのです。

 パウロはキリストが示した手本に従うよう勧めます。その為に、私達に同じ愛の心を持ちなさいと言います。この愛の心はキリストの心です。主が私達に注がれている愛の心です。主は今も全ての人の救いの為に愛を注ぎ続けています。その主キリストを手本にして、私達も主のように生きようではありませんか。その為には、相手の為だと思ったり、誰が見ても正しいと思うような事でも、利己的な思いや虚栄心が隠れていないかと警戒しましょう。それがあると教会がキリストの体ではなくなってしまうからです。人は誰でも自分が大事で大切なので、自分を低くして、相手を自分より優れた者と認めるのは難しいからです。だから主は、十字架の死にまで神に従順に従い、手本を見せたのです。主はご自分の事だけでなく、私達の事を考えて下さり、私達を大事に、大切にし、私達の良い所を見て下さったからです。私達が神の子になるに相応しい者と認めて下さっています。私達は長所も利点もない、無きに等しい者ではありません。私達が生きているのは、神が今私達を必要としているからであり、私達になすべき務めがあると認めているからです。

 一人一人性格も、価値観も違います。相手の長所が欠点にしか見えないこともあります。相手にとって必要な事がどうでも良い事に見える場合もあります。ですから、キリストの体の部分同士として、心を合わせ、思いが一つになれるように、互いに相手の良い所を見つけるようにしましょう。その姿勢で相手に接する時、パウロが言うように「キリストの励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情と憐れみがある」私達になれます。

 私達はキリストにはなれません。でもキリストのように生きようとすることはできる筈です。神は私達に完全になることではなく、完全を目指すことを求めています。その為に、神は御子を世に与え、十字架の贖いにより、私達の罪を赦されたのです。そして、御子を信じる者を神の恵みの受け皿とし、祝福の注ぎ手とし、地の塩、世の光となる使命を与えています。私達は神に愛されている神の子です。神は同じように世の人々も愛しています。家族、友人知人、地域の人々が救われ、この地が神の栄光が輝く所となる為に大事な務めを私達に与えています。十字架と復活の主キリストという素晴らしい手本があります。主を仰ぎ見て、主のように生きることを目指しましょう。