メッセージ(大谷孝志師)
神が必要とする私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年3月1日
マルコ8:31-37 「神が必要とする私達」 牧師 大谷 孝志

 受難節に入っている。主イエスが第一回の受難告知をした箇所を通して、神に認められる人生とはどんな人生かを学ぶ。主は、ゲッセマネで捕らえられ、大祭司の家に連行され、唾を掛けられ、拳で殴られ、平手で打たれた後、総督官邸で鞭打たれ、茨の冠を被らされ、十字架に釘で打ち付けられた。主は何の悪い事もしていないのに「多くの苦しみを受け」た。それだけでなく、長老達、祭司長達、律法学者達に捨てられ、殺され、三日目に甦らなければならないと弟子達に教え始めたとある。人に捨てられただけではない。主は息を引き取る少し前、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだ。主は父である神にも見捨てられた。主がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた時、天が裂け、御霊が鳩のように自分に下って来るのを見た。その時天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という父なる神の声が聞こえた。そして、主は神の福音を宣べ伝える生活に入った。家族の大黒柱の立場に居た主は、家族を離れ、自分に付いて来る弟子達との共同生活を続けた。その為、家族から白い目で見られたこともあった。更には、ゲッセマネで祭司長達から差し向けられた群衆に捕らえられると、弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。ペテロだけは遠くからエスの後に付いていったが、大祭司の家の庭の中で「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいたね」「あなたはあの人達の仲間だ」と言われ、イエスとの関係を否定し続けた。弟子達のリーダー役のペテロにも裏切られた。

 主イエスが第一回の受難告知をすると、そのペテロがイエスを脇に連れ出して、いさめ始めたと聖書にある。そのペテロを主は「下がれ、サタン」と叱りつけた。この「いさめた」と「叱った」は同じエピティマオーというギリシア語。その他、福音書には、弟子達の主イエスに対する無理解ぶりが幾つも記されている。主イエスは彼らに「わたしに付いて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言い、彼らは全てを捨てて、主に従って来た。それなのに彼らと主イエスとの間には大きな溝が存在していた。彼らは主イエスがどんな方で、何をする為に世に来られたのか、父なる神がどんな思いで御子を世に与えたのかを、最後まで理解できなかったと言える。しかし、主イエスが十字架に掛かって死ぬことによって、全てが変わった。新しくなった。ヨハネ1:12にあるように、神は「この方が(イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」から。しかし彼らは、主の十字架の死を自分なりにしか考えられず、ユダヤ人を恐れて家に引き籠もっていたが、彼らは変えられ、全世界に福音を伝える働き人になった。何故変わったのか。主が彼らの所に来たから。彼らが十字架と復活の主イエスに会ったから。しかし彼らが主の働き人になるのには足りないものがあった。彼らは主が生きていると知り、大いに喜んだ。しかしその喜びだけでは不十分だと主は知っていた。主が「聖霊があなたがたの上に臨むとき、、あなたがたは力を受けます」と彼らに言ったから。だから、彼らは心を一つにして祈り求めつつその時を待った。神はその彼らの祈り求めに応えて、彼らを聖霊に満たした。彼らは立ち上がった。神は彼らの全てを知り、全てを備え、働き人に用いた。自分の知恵と力だけでは私達も福音を世の人に伝えられない。私達も聖霊の満たしを求めよう。求めるなら主は与える。世の人が救われる為には私達の働きが必要だから。神が必要とするから私達はここにいるのだから。