メッセージ(大谷孝志師)

罪赦された重さを心に
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年3月8日
聖書 マタイ18:15-35「罪赦された重さを心に」  大谷孝志牧師

 「忘却とは忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」で始まる歌があります。「君の名は」の主題歌です。昔、このラジオドラマが始まると銭湯の女湯が空になりました。この台詞は、忘れたいけれど忘れられない人間の弱さ、辛さをよく表している言葉だと思います。母に幼い頃、赦すとは忘れることだと教えられました。言葉では、或いはその時は赦せても、心の内では赦せない思いが残るからです。でも、忘れるというのは難しいです。人間は良い事をしてもらったことは忘れ易いのですが、悪い事をされたことは、何時迄も覚えていて、心の中から消えないのが人の常だからです。

 主は15節で「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになる」と教え、聞き入れない場合はどうしたら良いかも教えます。神は、自分も相手もご自分のものとして愛し、大切にしているので、自分に罪を犯した人を赦すことは御心に適うことなのです。 とは言え、主は人が人を赦すことの難しさを知っています。神にさせて頂くしかありません。ですから、弟子達がどんな事でも相手と心を一つにして祈るなら、神はそれを叶えると教えるのです。何故でしょうか。二人または三人が主イエスの名において集まっている所、つまり自分と相手がいる所には、主もその中に居るからです。主は弟子達が相手に悪い事をされても、弟子達の集団、言い換えれば教会の群れの中に相手が留まれるようにすべきで、排除してはいけないと教えています。教会は相手を心から赦せることを実践できる場だからです。教会は、神が神として支配し、全権を握っている世界なのです。相手と心を一つにして祈れるし、心から赦し合える場なのです。

 とは言え、自分に罪を犯した人を心から、しかも無条件に赦すのとても難しいです。ですから主は、一つの道を教えています。それは自分と相手を神に委ねるということです。教会の交わりの中で事を決めれば良いと教えます。相手は自分が罪を赦されないと決まれば、教会にいられなくなります。教会から排除されることになり、その人が滅びることになります。主は教会にはそれだけの権威が与えられていると18:18で教えています。しかし18:14にあるように、「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父の御心」ではありません。悪い事をした事実より、その事によってその人が教会の交わりから排除され、滅びることの方が重いと主は教えます。教会内の問題解決の方法は祈りなのです。何故なら、祈りは私達を神と自分達の関係に置くからで、そこに解決策を見出せるからです。そこにこそ真の解決があります。その群れの中に真の解決者である主が共にいるからです。

 さて、ペテロは主の話を聞いて主の弟子であるなら、悪い事をした人を裁いて切り捨てずに、赦すことが大切だとは分かりました。ユダヤ教は3回まで赦せと教えています。だから何回赦すべきですか、七回までですか、と主に尋ねたのです。それ以上は自分には無理だと思ったからだと思います。

 しかし主は、自分に罪を犯した兄弟を七の七十倍するまで赦せと言います。主が共にいる交わりであればそれができるからです。主は、その理由を譬えで教えました。「天の御国は」と主が言うのは、主を信じる人はこの世に生きていながら、「天」神が支配する世界に生きているからです。日本でもユダヤでも人を赦せるのは3回が限度です。7×70=490、490回は途方もない回数で、言い換えれば際限なく赦すことになります。世の常識では考えられない回数ですが、天の御国、神が支配する世界、神の秩序の中だからこそ出来ます。

 さて、1万タラントの負債のある家来が王の所に連れて来られました。当時のヘロデ王の年収が900タラントと言われます。とても個人が借りられる額ではありません。主が極端な額を出したのは人の罪の大きさを教える為です。当然、彼には返済できません。王は彼に、自分自身も妻子も、持っているものも全て売って返済するよう命じました。主はこの譬えで、人は神に罪という負債を負っていると教えます。負債ですから、自分の全てを神に渡しても返済しなければなりません。しかしこの罪という負債は人の力では返済不可能な程大きいのです。人には返済できないことをこの額で主は教えています。

 不思議なことに主はこの譬えで、家来が王にひれ伏して、もう少し待って欲しい、そうすれば全て返すからと言うと、王は可愛そうと思い、彼を赦し、負債を免除したと言います。勿論、家来は必死になって王に懇願したでしょう。王に赦してもらう以外に、自分も妻子も生き延びられないからです。主のこの譬え話には重要な前提があります。人は全て罪人だということ、その犯した罪の故に、神が赦さない限り、人は滅びるしかないという大前提です。

 主がこの譬えを教えたのは、ペテロを含む弟子達が自分の罪をそこ迄深く考えていないからです。自分達に罪があるから物事を正しく判断できず、神との正しい関係が持てずにいることに気付けないからです。ですから、人と正しい関係が持てないので、人を赦すことができずに裁いてしまうのです。逆に、神と正しい関係が持てると安心して自分に罪を犯した者を赦せます。

 自分が犯した過ち、相手が自分にしてきた悪い事を平気で赦し合える世界、赦すことによって自分が何の害も受けない世界を想像してみて下さい。それが「天の御国」なのです。それが主が共にいる世界なのです。それが地上の神の国である教会の本来あるべき姿なのです、この世をそのような世界にする為に、主は十字架に掛かって死んで、罪を取り去って下さったのです。

 神の国は裁き合う世界でなく赦し合う世界なのです。しかし、王に赦された家来は、自分の負債の1/60万の負債のある人を赦せずに牢に放り込んでしまいます。そして彼も牢にいれられました。自分が赦されざる罪を神に赦されたことを忘れると、人間関係が壊れ、神との関係も壊れると主は教えます。

 神は全ての人にご自分と共にいる世界に生きる者とする為に、無条件に、御子を世に与え、御子イエスの十字架の贖いにより、人が神と共にいられるようにされたのです。主イエスを信じるならその人は罪を赦され、神と共にいられます。ただ信じれば良いのです。自分が神に罪を赦された重さを深く心に刻み、赦し合い、補い合い、助け合う世界に共に生きる者になりましょう。