メッセージ(大谷孝志師)

神が望む道を歩む主
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年3月15日
聖書 マルコ14:32-42「神が望む道を歩む主」  大谷孝志牧師

 今日の個所は、「ゲッセマネの祈り」と呼ばれます。マタイとルカの福音書にも記されています。ルカを見ると「イエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた」とあります。その中腹にあるゲッセマネ(オリーブ油の絞り場)の園が主の祈り場の一つだったからです。そこに付くと、主は自分が祈っている間、そこに座って待つように弟子達に言いました。そしてペテロ、ヤコブ、ヨセフの三人だけを連れて先に進みました。三人は主が深く悩みもだえ苦しむ様を見ました。主は「わたしは悲しみの余り死ぬ程です。ここにいて、目を覚ましていなさい」と三人に命じました。イエスがそう言ったのは、主にとって、彼らが目を覚ましていることが必要だったからではありません。主は彼らの助けを必要としていないからです。彼ら自身にとって目を覚ましていることが必要だったのです。主はヤイロの娘の癒し、山上での変貌でも三人を特別な経験をする所に伴っています。トマスが主の復活を見たから信じたように、人は誰も、見ないと信じられない弱さを持つからです。

 主が彼らに目を覚ましていよと言ったのは、弟子としての彼らに、ご自分の悩み苦しみを味合わせようとしたからです。主は最初に「目を覚ましていなさい」と彼らに言い、一時間でも目を覚ましていられず、眠ってしまった彼らに「誘惑に陥らないように、目を覚ましていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」と言いました。しかし彼らは目を覚ましていられませんでした。主が再び離れて行き、祈り終えて戻ると、また眠っていたからです。起こされた時、彼らはなんと言って良いか分かりませんでした。ですから、三度目は尚更のことだったろうと思います。主と弟子達がゲセマネに来たのは、最後の晩餐の後ですから、真夜中頃と思われます。普通なら眠気を押さえられない時です。しかし近くで主がもだえ苦しみ、悲しみの余り死ぬ程の思いで祈っているのです。 それなのに彼らは眠ってしまいました。眠ったら、主の苦しみを自分の苦しみとして捉えられません。主が「霊は燃えている」と言ったように、彼らも主の苦しみを感じながら、心に燃えるものを感じてはいたでしょう。しかし彼らは誘惑に負けて、眠ってしまったのです。この「霊」は御霊ではありません。主への思いであり、信仰と言えるものです。「肉」は人としての自分で、肉が弱いのは、自分が悪に支配されていたからです。

 信仰は神から引き離そうとする悪の一番の標的になります。悪の力に打ち勝つ一番の方法は、目を覚まして祈っていることです。体が目を覚ましていると心も目を覚ましているからです。その大切さと自分の心の弱さを彼らに実感させる為に、真夜中に、目を覚まして祈っていなさいと命じたのです。

 主イエスは、ペテロ達から少し離れた所で「地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るように」と祈りました。少し前、主は弟子達に「これは私の体です」と言ってパンを渡し、次に杯に入ったぶどう酒を渡し「これは、多くの人の為に流される、私の契約の血です」と言いました。主はご自分が全ての人の罪を負って死ななければならないと知っていました。 主は、神が全ての人の神となり、全ての人を神のものとし、祝福する為に自分を世に遣わした事、その為に自分が多くの苦しみを受けて死ななければならないと知っています。弟子達が主のその姿に驚き恐れても、主はその道を歩んで来ました。それなのに、何故死ぬのを恐れ、悲しんだのでしょうか。

 神と人との関係が断絶されているからです。このままでは人は滅びます。そうならない為には、自分と神との関係が、一度断絶されなければならないのです。神の御子である主が神に見捨てられ、罪もないのに罪人として断罪されるのですから、大変深刻で厳しいことです。主はヨハネ16:16の告別説教の中で「暫くするともう私を見なくなるが、また、暫くすると私を見る」と言いました。主は、死で神との関係が終わらないと知っています。しかし十字架の死が意味する断絶の深さを知るからこそ恐れたのです。だから、できるなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈りました。決して、逃げ出したかったのではありません。主はこの時の為にこれまで歩んで来たからです。ですから続いて、主は「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯を私から取り去って下さい」と真剣に願います。主は自分が何故木に掛けられ、神に呪われた者として死ななければならないかを知っていた筈です。それなのに願わずにいられなかったのは、それ程大きな痛みだったからです。飲まずに済むのならと思ったのです。人となって世に来た御子の人間としての姿をこのイエスに見ることができます。ヘブル人4:15にあるように「私達の大祭司(御子イエス)は、私達の弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私達と同じように試みにあわれたのです」それが私達の主、救い主イエス・キリストなのです。

 しかし主は、御父が愛する我が子を御自分の意思に反した者として、裁き、断絶しなければならないという望むべきでない事を望まなければならない御父の痛みを知っているのです。自分が十字架に掛かって死ななければ、神と人との関係が断絶したままになってしまいます。それは父なる神が望むことではないと主は知っているのです。御父はこの杯を取り去ることができるのに、そうせずに我が子を十字架への道を歩ませているのです。その御父の痛みに満ちた思いを主は知ります。ですから「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と主は祈ったのです。

 主は弟子達に8:34で「だれでも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言いました。パウロがピリピ゚2:6-8で「キリストは、神のみ姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、ご自分を低くして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられました。人としての姿を持って現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」と言うように、主自身がまず手本となって下さったのです。私達がこの主のように神に従うことによって、神が望んでいる世の人々を救う働きができるからです。私達も家族、友人知人が救われることを望んでいます。自分を見つめ直し、主を信じ、主に従いましょう。そして自分が望むことではなく、神が望むことを行う信仰者になりましょう。