メッセージ(大谷孝志師)

私を見詰めている主
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年3月22日
聖書 ルカ22:54-62「私を見詰めている主」  大谷孝志牧師

 今日の個所に登場するペテロは、十二人いた主の弟子達の中で常に最初に名前が挙げられています。ゲッセマネの園での祈りの時等、選び同行させた三人の弟子達の筆頭でもあります。しかし彼は、主を叱り付けて逆に叱られました。ガリラヤ湖の上を歩いて来た主に、私に命じて歩かせと願い、歩き始めたが強風を見て、主から目を離して怖くなり沈み掛け、主に「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言われたのもこのペテロです。22:32で彼は主に「私はあなたの為に、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟達を力づけてやりなさい」と言われました。でも「主よ。あなたとご一緒なら…死であろうと、覚悟はできております」と大見得を切りました。しかし主に「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度私を知らないと言う」と言われてしまいます。主はペテロの今も将来も、全てをご存じなのです。そしてそのペテロに使命を与えました。人に能力や洞察力があるから主が用いるのではありません。主がその人の働きを必要とするから、知恵と力を与えて、主の為の働きができるようにしてくれるのです。

 ユダを先頭にしてやって来た祭司長達、宮の守衛長達、長老達を含む群衆が主を捕らえ、大祭司の家に連れて行きます。ペテロは遠く離れてですが、付いて行きます。危険だと分かっていた筈です。でも、心配して付いて行ったのはペテロだからです。しかし、主に言われた通りになってしまいます。彼のこの姿に、私は信仰者としてのこれまでの自分を見る思いがしました。

 私は、高一の時、母に勧められて教会に行き始めました。なかなか信じられなかったのですが、主が私を友と呼んでくれました。主が生きて、私と共にいると知り、信仰告白をし受浸しました。高二の時に伝道者になり、主の為には働きたいと思い、献身を決意しました。しかし自分の思い込みか神の意志か判断できず、半年で止めました。しかし主はそんな私を突き放さず、しっかり捕らえていたのです。高三の秋に祈祷会で光に包まれ、伝道者となる決心をし、神学部に入り、宮城県の錦織教会に赴任し、20代で按手礼を受け、牧師になり、全国四つの部会の教会で働きつつ、今に及んでいます。

 半世紀になる伝道者としての歩みを振り返ると、正に湖の上を歩き始めたペテロのように、湖の上を歩いて来た思いがします。自分の力で歩けるものではありませんでした。私も「主よ、私に命じて水の上を歩いてあなたの所に行かせて下さいと願い、主に『来なさい』と言われて、歩ん来ただけです。

 決して安全な人生ではありませんでした。不安から沈みそうになった事は何度もありました。どうしても目の前の事や起きた事に動揺してしまい、主から目を離し、主が共にいるのを忘れてしまったからなのです。人生は山あり谷ありです。生き生きと主の業に励む時もあれば、牧師でいることに疲れたり、牧師であるのを隠す時もありました。しかし主は私の全てを見て分かっていました。本当に感謝です。私を主の恵みを伝える僕とする為に、時に手を差し伸べ、時に引き上げてくれました。だから牧師でいられるのです。

 さて、ペテロが大祭司の家の中庭で様子を見ていると、女性が彼を見詰めて「この人もイエスと一緒にいた」と言いました、彼は「私はその人を知らない」と否定します。暫くすると他の男が「あなたも彼らの仲間だ」と言うと、「いや、違う」と否定します。更に別の男が「この人も彼と一緒だった」と言います。すると彼はまたまた否定します。彼は何故主イエスとの関係をこんなに否定し続けたのでしょうか。彼が人々が剣や棒を持って、まるで強盗にでも向かうようにイエスの所にやって来たのを見たからです。でも、彼は自分が主と関わりある者とされたら、捕まって裁判に掛けられ、死刑になるかも知れないと思ったのでしょうか。彼は最初に言ったように「牢であろうと、死であろうと覚悟はできている」と言った筈です。実は、聖書は彼の言動を通して、私達に主を信じるとはどういうことかを教えているのです。彼は確かに、主イエスを信じ、主の為なら命も惜しくないと思っていました。でもそれは自分の心の中だけのことだったのです。思うだけ、信じるだけなら、人はどんな事でもできると思え、口に出せます。しかしです。実際にそれに伴う行動を求められると、思う事ができなくなるのが人の常なのです。

 彼は、主と一緒なら死んでも良いと考えたから、大祭司の家の中庭まで、遠く離れてでも主に付いて行ったのです。しかし、現実に自分が主の仲間と認めるように求められた時、それ迄の覚悟が吹っ飛んでしまったのです。命が惜しくなったのです。それが三度も重なりました。その事を通して聖書は、私達の思いが行動に結び付かない場合があることを明らかにし、思いを言葉に出せても、それを実際に行うことがいかに難しいかを教えているのです。

 すると直ぐ、鶏が鳴きました。主は、ペテロの覚悟には行動が伴わないことを知っていました。彼は信仰の危機に立たされています。しかし主は彼が三度主を知らないと言うのを知っていたことを私達は知っています。そして、信仰の危機に立たされた彼の為に、信仰がなくならないように祈っていたことも知っています。鶏が鳴いた時、彼は主が「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」と言った主の言葉を思い出しました。私達も、自分が聖書を読み、祈り、説教を聞いていた時に、主が自分に示したと感じた御言葉が、自分の心に再び響く時があります。ペテロは正にその経験をしました。主が私の全てを知り、こんな私を心に掛け、愛し期待していると知ったのです。その主の思いを知り、彼は外に出て、激しく泣きました。

 このように彼を変えた主こそが、私達が信じ、従っている主イエスです。主は人生の海の嵐にもまれている私達の全てを知っています。自分の弱さを思い知らされ、自分を見失いそうになっている私達を見詰めています。立ち上がらせ、立ち直させて下さいます。ペテロの信仰が無くならないように祈った主は、私達の為に今も祈っています。世の人々が自分は主に愛されていると知り、安心できると知る為に、私達の働きが必要だからです。主は私達一人一人を今も見詰めています。私達が主の役に立てると主が知るからこそ、私達を教会に招き入れ、教会に連なる者としているのです。私達は一人でいるのではありません。主がいつも共にいて私を見つめています。感謝です。