メッセージ(大谷孝志師)
パウロも求道者
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年3月29日
ピリピ3:12-16 「パウロも求道者」 牧師 大谷 孝志

 教会では、主イエスをキリスト、救い主と信じ、神と会衆のまで信仰を告白し、バプテスマを受けた人をキリスト者と呼ぶ。地上の個別教会の一員となることを望み、受け入れられた人を教会員と呼ぶ。それに対し、バプテスマを受けていなくても、イエスを主と信じたいと思って、信じられば良いなと思って、教会の礼拝や活動に参加している人を求道者と呼ぶ。このような名称による区別に、教会と伝道所、伝道師と牧師がある。教会でも主任教師が伝道師だったり、無牧で聖餐式を定期的に行えなかったり、逆に伝道所に牧師がいて、聖餐式を行う場合も。教会と伝道所は内容的に変わらず、名称の違いとも言える。牧師と伝道師も同様。牧師による伝道・牧会が良く、伝道師によるそれが不十分な訳ではない。

 では求道者とキリスト者・教会員の違いは名称だけの違いかというとそうではない。信じている者と信じていない者という決定的違いがある。キリスト者は聖餐に与れるが求道者は見ているだけ。求道者には教会員にある月定献金し、総会に出席する義務と権利は無い。では教会員と求道者に同じ所はないのかというとそうではない。同じである第一は、両方とも神の愛に生かされている人である事。本人が神の愛に生かされていると自覚しようとしまいと神の愛の中に生かされている点では同じ。キリスト者は信仰告白をし、バプテスマを受けるが、その前に、自分が神の愛の内に生かされていると自覚していることがそれを証明している。

 同じと言える第二の点は、まだ完全な者になっていない事。求道中の人で自分はどこから見ても完全だと思っている人はいないと思うが、キリスト者も誰一人自分は完全だとは思っていない筈。第一の点では本人が自覚しているかしていないのかの違いがあるが、第二の点では、まだ完全ではないという点では両方とも自覚できるし、完全な者になりたいと願う点でも同じと言え、むしろ違いは無い。

 言い換えるなら、教会来て礼拝している人は皆求道者。偉大な伝道者であるパウロも求道者だった。彼は自分の事をこう言う。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。」更に「自分がすでに捕らえたなどとは考えていません。ただ一つのこと、すなわち、後ろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです」と。彼はひたむきに求め続けた。彼は他人に非常に厳しい言い方をする時が。自分に対しても厳しい。一コリント9:26-27で「わたしは目標のはっきりしないような走り方はしまんせん。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分の体を打ちたたいて服従させます」と言うように。彼は素晴らしい牧者、伝道者だったが、素晴らしい求道者でもあった。私達も彼のような求道者になろう。その為には、彼のように、主イエスと同じ生き方、死に方を、更には、主と共に永遠に生きらることを願い求めよう。彼のように求めると、新しい自分に成れる。希望に満ち喜びに溢れて前進できる。自分に失望し、諦め無くて良い。誰も完全ではないから。私達は皆、主に愛されいている一人一人だから。とは言え、求めても求めても得られないと疲れることもある。彼は何故求め続けられたのか。彼は言う「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえて下さった」からと。彼の言葉、聖書の御言葉は私達に真理を知らせ、喜びで満たす。主が私達を捕らえ、聖霊に満たし、知恵と理解力を豊かにするから。感謝。