メッセージ(大谷孝志師)

まず神の国と神の義を求める
向島キリスト教会 礼拝説教 2020年4月5日
聖書 マタイ6:25-34「まず神の国と神の義を求める」  大谷孝志牧師

 明日から受難週に入ります。12日は主イエスの復活を喜び祝うイースター礼拝です。今から約二千年前、今週の金曜に、主は十字架に掛けられて死なれました。そして夕方、安息日が始まる前に、岩を掘って作った新しい墓に葬られ、三日目の朝、復活されたのです。主イエスが何故十字架に掛けられて死に、復活されたのかを新年度の主題聖句を通して学び、この御言葉を心に蓄えて、皆で主と共に歩む者になりたいと思います。私達がこの世で生きる為に、様々な物が必要だと思っているのを主は知っています。神としての在り方を捨て、私達と同じ人になり、神の御子として世に生きていたからです。しかし主は100%人であり100%神です。常識では理解できないことですが、これが真実であり、霊的事実です。その事を信じ受け入れる時、私達は聖書の言葉の意味を正しく理解し、この世での生活、教会生活の中で安心して、力強く生きられます。この一年、今年度の主題を心の内にしっかりと刻み、他の兄弟姉妹と共に心と力を合わせて、主と共に日々歩んで行きましょう。

 主は「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる」と言います。野の花が神に感謝し、神を礼拝するので、相応しくしようと神が装うのではありません。野の花が野に生きる野の花として最も良い姿で生きられるようにする為です。野の花にも必要十分なものを与えている方、それが私達が信じ仕えている天の父である神なのです。主は野の花を例えに出して、自分の命や体のことで心配しなくて良いと教えます。人は何かが無くて心配になると、無いものに心を奪われ、神から目が離れてしまうからです。ですから主は「心配したからと言って、少しでも命を延ばせるか」と言います。健康そのものだったのに突然病気になり、祈り求めても命を延ばせずに死んだ人を私は何人も知っています。全ては神の計画と意思によって行われるのです。神を信じるなら、その神に全てを委ねていればよいのです。私は、委ねられるのは恵みであり、委ねられると安心なのだと最近、特に感じられるようになっています。感謝です。野の花は委ねようと思って委ねている訳ではありません。ただ神に養われるままに生きているのです。それで良いのです。それが委ねるということなのです。私達も、私達を愛し、養い育てる神に、全てを委ねていれば良いのです。命についても同じです。必要だから神は私達を天に召すし、必要だから世に生きる者としているだけです。ここに主が教える真理があります。パウロはロマ12:1で「あなたがたの体を、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として献げなさい、それこそ、あなたがたに相応しい礼拝」と言います。神に委ねることは神に自分を明け渡すことです。言い換えるなら、神に自分を献げることでもあります。

 コロナウイルスの感染拡大が止まらず、世の中が騒然とする中、私達は新年度を迎えています。主は私に今年度の主題聖句の案に「まず神の国と神の義を求めなさい…」との聖句を与え、役員会でこれを決定しました。主はこの御言葉を示し、この時だからこそ、第一にすべき事は何かを教えたのです。

 今に限らず、私達に必要な事は、心静かに神に目を注ぎ、霊と真理をもって礼拝することだと主題聖句は教えます。世界中に新型コロナウイルスの恐怖が蔓延し、私達の教会も感染させない、されないよう「三密」を避ける為に出来る限りの工夫と努力をしています。勿論これは「命や体」を心配するからでなく、礼拝や集会を続け、一人一人が父なる神、主イエスとの関係をしっかりと保てるようにする為です。ここは神の教会であり、キリストの体である教会だからです。主に命じられて水の上を歩いたペテロが波風を見て恐ろしくなり、沈み掛けたように、コロナウイルスを恐れて神から目を離せば、より危険な信仰の危機に陥り兼ねません。母はよく「人事を尽くして天命を待つ」ようにと教えました。私はこの主題聖句を通して、主を信じる者にとっては、天命に従いつつ、人事を尽くすことが重要と教えられています。確かに新型コロナウイルスは恐ろしいです。しかし、詩編127に「主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい」とあります。私達は「教会はキリストの体であり、全てのものを全てのもので満たす方が満ちているところ」であり、教会は神が守っているとの信仰にしっかりと立っていましょう。

 私達はその信仰に立ち、主を信じ、主に従っているから、今ここで、またライブ配信を見ながら主を礼拝しています。その主は私達に「誰でも私に従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従って来なさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私と福音の為に命を失う者はそれを救うのです」(マルコ10:34)と教えました。主は何故、自分を捨てて私に従えと命じたのでしょうか。それは、私達は主の十字架の犠牲により贖われ、神に買い取られた神の所有物だからです。神は私達が主に服従して生きるよう求めているからです。私達は自分は自分のものだと思っていますが、パウロが、自分は神の奴隷で囚人と言うように、私達は神のものなのです。自分を自分のものとする思いを捨てよと、主は私達に発想の転換を求めています。

 さて、先ず神の国と神の義を求めるのはそれ程大切なことなのでしょうか。それを知る為に、視点を変えてみましょう。主は私達に、主の祈りで「御国を来たらせ給え、御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」と教えました。実は私達のこの祈りこそ「神の国と神の義を求め」る祈りなのです。私達が生きる世を、神が支配していると実感出来る世にして下さい。世に生きる私達は弱く愚かで、心が頑なですけれど、御子を世に与えた御心を、世に生きる私達の為に行って下さいと私達はこの祈りで祈っているのです。神の国と神の義を求めているのです。自分を捨てるとは神に自分を明け渡し、神に全てを委ねることです。神に任せれば安心との信仰を神は喜びます。主が言うように「苦労はその日その日に十分あります」。十字架の死の直前に主も「世にあっては苦難があります。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました」と言いました。私達は押し潰されそうな苦難の中で新年度を迎えています。だかこそ、まず神の国と神の義を求めましょう。そうするなら、神は私達をに、信仰に伴う平安と愛を与え、神の愛と力を満たし、この世に生かします。この聖句を心に刻み、安心して生き生きと共に生きて行きましょう。