メッセージ(大谷孝志師)
愛と恐れについて
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年4月5日
Tヨハネ4:13-21 「愛と恐れについて」 牧師 大谷 孝志

 もう50年も昔のことになるが、ある女性が相談に来た。プロポーズされ、結婚を前提に付き合っているが、Tヨハネ4:18を読み。迷っていると言う。自分も彼も人間だから、弱さも欠点もあり、障害物を恐れ、悩むこともあるが、愛さえ失わなければ大丈夫とが思っていた。しかし聖書に「完全な愛は恐れを取り除く」とあるのを見て、はっとした。自分と彼と周囲の事を考えると不安になり、その通りになると思うと、恐れで一杯、愛していれば恐れはない筈だから、彼を愛していないことに気付かされたと。人には不安や恐れ確かにある。でも主を信じ、全てを委ねるなら、相手を愛していける。そのような愛の道があると聖書は教えていると、言葉を尽くして話したけれど、結局婚約指輪を返し別れた。

 彼女のこの場合、愛が二人を近付け、恐れが二人を離れさせたと言えると思う。この愛と恐れの相反する作用は、恋愛に限らず全ての人間関係に適用される真理ではないだろうか。相手を愛していればどんどん近付けるが、恐れがあると離れてしまうから。勿論人間関係は複雑多岐にわたるので、利害得失、相性などの要素も大きな影響を与えるが、愛と恐れほど決定的影響を与えるものはないと思う。教会の中にも、結び付いていこうとする関係、離れていこうとする関係がみられる時もある。家族の中で対話がなくなったり、相互不信が生まれたりするのは辛く悲しいこと。教会は神の家族。神の家族なのに、この家族の間で、対話がなくなったり、相互不信に陥ったらとても悲しい。何よりも神を悲しませることにもなってしまう。礼拝に行くのが辛い人が一人でもいたら、教会がその機能を果たしていないことに。

 しかし現実には、教会の中でも喜んで愛せる人、愛せそうに思える人と、あの人は愛せそうもない、いや絶対駄目だと思ってしまう場合すらある。主は互いに愛し合いなさいと命じているのに、何故互いに愛し合えないことが起きるのか。やはり恐れが生じるから。愛するとは、父なる神、主イエスが私達を愛したように、徹底的にその人をそのまま受けれること。自分の為だと思えば愛せるが、自分の生き方を否定しなければならない、自分が駄目になるかも知れないと思うと愛せなくなる。今日の聖句と逆で、「恐れがなければ愛せるが、恐れがあれば愛せない」ことに。しかし聖書は真の愛があれば、どんな人をも恐れずに愛せると教える。

 人は、相手の全ても、自分と相手の先の事も、更には自分の現実さえ知り得ない。不安や恐れがあるのは当然。だからと言って、その恐れによって互いの心が離れるのを神は喜ばない。私達は神の家族。互いが必要だから、私達が兄弟姉妹として愛によって互いがしっかりと結び付く時、教会が生き生きと成長していく。

 その為には先ず本当の愛を知ろう。4:10でヨハネは「神が私達を愛し、私達の罪の為に、宥めの献げ物として御子を遣わされました。ここに愛がある」と言う。主イエスはこの父なる神の愛を「死にまで、それも十字架の死にまで従われ」たことで実践し、私達に真の愛を示した。だからゲッセマネの祈りでも、主は深くもだえ、悲しんだが「恐れ」という言葉はない。主が真の愛に満ち満ちていたから、恐れることなく、ご自分を捨て、十字架への道を歩んだ。この主の愛、神の愛が、私達の内に与えられている。感謝しよう。私達は主のように生きられる。恐れることなく安心して人を愛せる。共に生きられる。「私達は、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証をしている」とヨハネは言う。私達も神の愛に生きる素晴らしさを世の人々に示し、救われた喜びを証ししていこう。