メッセージ(大谷孝志師)

目を上げて進もう
向島キリスト教会 復活祭聖日礼拝説教 2020年4月12日
聖書 マルコ16:1-8「目を上げて進もう」  大谷孝志牧師

 主は、約二千年前の今週の金曜にあたる日の午前9時に十字架に付けられ、午後3時過ぎに息を引き取ったと15章に記されています。イエスの弟子でありながら、ユダヤ人達を恐れて、その事を隠していたアリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラト総督に主の体の下げ渡しを願い出ました。許されると、彼は主を岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がして置きました。彼に勇気が必要だったのは、ペテロがそうだったように、犯罪者の仲間と見られる恐れがあったからです。でも彼は、主の為に自分にできる最高の事をしたいと思ったのです。マグダラのマリア達もそうです。主の体に香油を塗って、敬っていた主への最後の精一杯の奉仕をしたいと思っていたから、週の初めの日、日曜の早朝、墓に向かいました。この時間になったのは、ユダヤでは金曜の日没から土曜の日没までは安息日で、生きる為に必要な物以外は買えず、日没後に油を買い、夜が明けるのを待っていたからです。

 彼女達は墓の入り口に石があり、自分達は墓に入れないと知っていたけれど墓に向かいました。彼女達は「誰が墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとあります。この言葉に、計画性が無く、自分達の為に誰かがきっとしてくれるという他人への依存性等の自己中心的考えの持ち主だと指摘した人がいました。これは女性特有の心理だと言う人もいました。女性の味方をする訳ではありませんが、説教の準備の中で私は、彼女達の心理、行動こそキリスト者の信仰の本質的在り方の一面を示していると気付かされました。彼女達は主に仕えたかったのです。主の側に、近くに行きたかったのです。しかも、それを阻む物があるのを知っていました。それを承知の上で、行動を起こしているのです。自分達が望む事、しようと願っている事の目的が果たせないと思わざるを得ない状況にあったのです。しかし諦めないから墓に向かったのです。彼女達は、自分達の力ではどうにもならない全く不可能な状況に置かれています。それでも尚、前に進もうとし、希望を持ち続ける彼女らに力強さを感じ、学ぶべきだと感じたからです。

 さて、彼女達は石が既に転がしてあるのを知りません。思っても見ません。「誰が石を転がしてくるでしょうか」と話し合っっていたからです。もし、彼女達が諦めたらどうだったでしょう。御使いから主がよみがえった事実を聞けなかったでしょう。石は既に転がしてあり、彼女達が墓に入れるよう神が整えていたことを私は強調したいと思います。私達も現実を見て諦めずに、既に全てを整えている主を信じ、主に期待する者になりたいと思うからです。

 主の為に何かしたいと思っても、仕事や家族や体力、気力を考え、自分には無理と思う人がいるかも知れません。聖書は、主の為に何かしたいと思えば、したら良い、諦める必要はないと教えます。阻むものがあると感じても、それは自分の信仰を試し、強め、成長させるものだと心に刻んでいることが大切です。彼女達は大きな障害があるからと、しようと思うことを諦めませんでした。私達も現実に押し潰されずに、前に向かって歩んでみましょう。

 とは言え、彼女達の心が主の死の悲しみで満ち、落ち込んでいたのは確かです。しかし主の為にと行動を起こした時、彼女達は主の素晴らしさ、主が道を整える方であると知ります。彼女達は目を上げました。自分の力や障害を思っているだけだと、既に起きている新しい事に気付けません。「目を上げる」は目に見えない事実に目を向けることなのです。神が既にしている事を見ようとするのです。大きな障害や深刻な不安があっても、主の為に何かしたいと思うなら先ず行え、主が守るので先に進めるからと聖書は教えます。

 彼女達は石が転がしてあるのを見て、半分ホッとしながら、半分は恐る恐る墓に入ったと思います。私達も大きな障害や深刻な不安があっても、主の為にするのだから出来ると信じて行動を起こす時、正直言って、不安は拭いきれません。でも、墓に入ったことで、彼女達は驚くべき体験をします。そこには真っ白な衣をまとった青年がいました。彼女達は非常に驚きました。それは御使いだったのです。一庶民、それも女性が御使いに会うのはユダヤでは有り得ないことでした。彼女達が非常に驚いたのは当然です。それにユダヤでは神を見た者は死ぬと教えられていました。御使いに会った彼女達は神に会ったのと同じで、激しい衝撃を受け、恐れおののいたのです。しかし、御使いは彼女達に驚くなと言いました。恐れおののかなくても良いのだよと語り掛けたのです。何故でしょう。主の十字架の死により、神と人との関係が全く新しくなったからです。彼女達はまだ主イエスにあっていないし、主を救い主と信じ、神の子となる資格を得ている訳ではありません。しかしその道が既に開かれているのです。神と共にいることは恐ろしいことではなく、今や喜びの時になっているのです。その「時」が既に始まっているからです。

 彼女達は主が死んだままだと思ったから、香油を塗りに墓に行きました。私達も、主の為にああしたい、こうしたいと思っても、主は私達の求めに応えられないと思い、勝手に諦めていたら、彼女達と同じです。主の為にしたいと思う事があればそれをしてみれば良いと教えられます。その思いを主は喜び、御業の為に用いてくれます。彼女達にそこから新しい歩みが始まったように、主が備えている自分達が思っても見なかった道を歩み出せます。

 それから、彼女達が思っていた事と事実が違っていたことにも注目しましょう。既に、主は霊の体に復活していました。御使いが告げたように、主は生きていて、会えるのです。今も私達と共にいます。彼女達が墓に着くと、既に入り口の石が転がされ、墓に入れ、したいと思う事が出来るようになっていました。神は万物の創造者です。無から有を生じさせる方なのです。祈祷会で学んでいるダニエル書10:12で御使いが彼に「恐れるな、ダニエル。あなたが心を定めて悟りを得ようとし、自分の神の前で自らを定めようとしたその日から、あなたの言葉は聞かれている。私が来たのは、あなたの言葉のためだ」と言い、10:19で「恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ」と言います。主は今も、私達の祈り求める声を聞き、それに応えてくれます。主は私達の思いを遙かに超えた方、私達の全てを見聞きしています。目を上げ、復活の主を見上げ、主と共に歩みましょう。主は助け主、救い主だからです。