メッセージ(大谷孝志師)
私達は祝福されている
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年4月12日
マタイ5:1-7 「私達は祝福されている」 牧師 大谷 孝志

 聖書を初めて読む人の多くが躓くのが、マタイ1章の系図、次が処女降誕の記事と言われる。これがキリスト教の教えなら、聖書を読んでもしょうがないと思わせるのが5-7章のこの山上の説教と言う人もいる。この通りに生活しようと思っても殆どの人には出来ない。この倫理的基準の高さは他の何者にも比べ得ない。これは福音。だから誰にもできないことではない。しかし無条件で出来ることでもない。主イエスの十字架と復活により出来るようになった事、主が共にいるから出来る事が教えられている。初代教会の人々もその身で真実と知りこれを記した。

 この「山上の説教」は3-10節の八つの祝福の教えで始まる。主はこの教えで、最も基本的事柄、主イエスを信じ、主と共に生きるとはどういうことかを教える。しかし最初の「心の貧しいもの」という言葉に引っかかる人が多い。心の貧しさに悪いイメージを持つ人が多いから。これを心の貧しさを知っている人と言い換えると分かる気がするのではないか。それにしても主は何故、心の貧しい者は幸いと言うのか。これが分かると何故、この山上の説教の教えが福音と言われる理由が分かる。端的に言えば、「私を信じるなら何もいらない」と教えている。パウロもコリント一1:28で「この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれた」と言う。主イエスを信じてこの世で生きる為には、人間の知恵や力、心の豊かさ、人に自慢したり、誇れたりするものの有無は、一切関係ないと主は教える。いや、むしろない方が幸いだと教える。何故なら、何にもないから、主イエスに寄り頼むしかなく、主に対して素直になれるから。つまり、心の貧しい人とは、自分の心がこの世のことで一杯になっていない人。自分の心が空っぽの人。主は、私がそこに必要なものを豊かに与え、主がいるから大丈夫だ、安心だとの思いで満たしてくれる。だから幸いだと主は教えている。

 とは言え、何も無いと不安になる。昔、江戸っ子は「宵越しの銭は持たない」と言った。しかし米櫃が空になると不安になったように、財布が空、通帳の残高が残り少なくなると辛く不安になるのが私達人間。また今も、新型コロナウイルスの感染拡大で様々な不安や疲れを感じている。また、自分と相手の考え方、判断基準の違いで、驚いたり、悲しんだりする事もある。時には人々の何気ない言葉や悪意に満ちた言葉に苦しめられることもある。更には祈ってもどうにもならず、自分の信仰が駄目なのか、主は私のことを本当に分かっているのかと考える時も。

 主は言う。「悲しむ者は幸い、柔和な者は幸い、義に飢え渇く者は幸い、憐れみ深い者は幸い」。何故か。私達が悲しみに打ちひしがれている時、無いことに不安と恐れを抱き、耐え忍んでいる時、霊的欠乏を感じる時、私達が慰められ、勝利者として固く立ち、主の霊に満たされていると主は知る。先の事であっても、私達がそうなるのを知る。主は今の事も先の事も全て知る。黙示録が記す「私は初めであり、終わりである」方こそ、私達の主イエスだから。ヨハネ16:33で主は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝ちました。」と言う。自分はもう駄目だ、無力だ、絶望だと思っている人に主はそう語り掛けている。途方に暮れることはあっても行き詰まることはないとパウロも言う。主を信じていれば苦難を恐れることはない。彼は「苦難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し…希望は失望に終わ」らないと私達に教える。主を信じ、従って生きるなら、祝福された人生を歩める。