メッセージ(大谷孝志師)

信じる者になろう
向島キリスト教会 復活祭後第一聖日礼拝説教 2020年4月19日
聖書 ヨハネ20:19-29「信じる者になろう」  大谷孝志牧師

 主イエスは、十字架にかかって死にました。しかし三日目に死人の中からよみがえり、今も生きて、私達と共にいます。主は復活した日の夕方に、ユダヤ人を恐れて戸に鍵を掛け、閉じ籠もっていた弟子達の所に来ました。私達も新型コロナウイルスを恐れ、自分の気持ちの中に閉じ籠もっていないでしょうか。主は様々なニュースに落ち込みがちな私達のことを知っています。そして私達の所に来ています。そいて「平安があなたがたにあるように」と語り掛けています。今日は聖なる日、主の日、その主を共に礼拝する日です。

 主は何故彼らの所に来たのでしょう。主が来る必要が彼らにあったからです。彼らはマグダラのマリアから、彼女が主に会ったこと、主が彼らに伝えよと言われた事を聞いていました。ですから、主イエスが十字架に掛かって死んだけれど復活したと知っています。彼らは「それは人には出来ないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです(マルコ10:27)」と主が言ったのは事実なのだと知りました。それなのにユダヤ人を恐れ、家に閉じ籠もっていたのです。彼らはガリラヤ湖上で乗っていた舟が沈みそうになった時、船尾で寝ていた主を起こして「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」と言いました。主が起き上がって風を叱り、湖に「静まれ」と言うと、すっかり凪になりました。主は弟子達に「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と言われてしまいます。今の私達に似ていないでしょうか。私達も復活の主、万物の主イエスが救い主と伝えられ、主が今も働いていると知っています。どんなことでもできる神を信じているのです。でもコロナを恐れて閉じ籠もりがちになっているからです。ペテロは、捕らえられ、大祭司の家に連行された主に付いて行き、主との関係を三度拒否しました。主はその自分の全てを知った上で、自分の信仰が無くならないように祈っていた主に見詰められ、外に出て激しく泣きました。見えないが、主イエスは閉じ籠もっているこの私達を見詰め、「平安があるように」と語り掛けています。私達は主の愛の中にいるのに、主に愛されている自分を本当に感じているでしょうか。自分の信仰を、静かに深く顧みてみましょう。

 パウロはロマ8:35で「誰が私達をキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、…、危険ですか、剣ですか」と言い、:38で「これらすべてにおいても、私達を愛して下さった方によって、私達は圧倒的な勝利者」ですと言います。しかし、家に閉じ籠もっている弟子達に勝利者の姿はありません。それにこの日、復活の主に「平安があなたがたにあるように」と言われたのに、八日後も彼らは戸に鍵を掛けて家の中にいたのです。変わっていないのです。だから主は弟子達に語り掛け、同じような私達にも語り掛けているのです。恐れが人の目を塞ぎ、平安が人の目を開くからです。平安になると、主が共にいて私達の全てを整え、私達を愛をもって包んでいるという人間の常識を遙かに超えた霊的事実を確認できるからです。目には見えないが、自分は神が絶対的支配者である神の国に生きていると分かるからです。

 使徒の働きには弟子達とパウロが大胆に力強く福音を宣べ伝える正に勝利者としての姿があります。初めは教会を激しく迫害していたパウロは、復活の主に直接会い変えられました。弟子達もペンテコステの日にルカ24:49で主が送ると約束した聖霊に満たされ変えられました。主は弟子達を変える為に、戸に鍵が掛かった家に入って来た。私達が心の戸に鍵を掛けていても、様々な恐れや不安に囚われていても、主と会い、変えられる時が必ず来ます。主は私達を愛し、恐れや不安を主と共に生きる喜びに与える為に必ず来ます。

 さて十二弟子の一人、トマスは復活の主が来た時にいませんでした。 理由は分かりませんが、人が死者の中からの復活を信じる難しさを知る主は、彼の性格を用いて私達に大切な事を教えていると私は気付かされれました。人は主イエスの復活を信じない限り、神にそのままで受け入れられ、永遠の命を得られないのです。復活を信じるとはそれ程重大な意味を持っています。何故復活が必要かというと、私達が罪を赦され、神の子となる資格を得る為には、主が、私達の罪を神に呪われた者となって負い、死なければならなかったのです。そして、私達が罪を赦され、神の子となり、新しい人として生きられることを、主が霊の体に復活して弟子達に会い、見せたのです。そして今、私達も主イエスが死者の中から復活したと信じています。

 私達が信じられるようになる為に、神は彼を用いたのです。彼はヨハネ11:16を見ると主イエスと一緒なら死をも辞さない気迫と情熱を持っていました。しかし、理性的に判断し、実証的に理解しようとする性格の持ち主でした。常識や経験を超えた主イエスの復活を信じる為には大きな飛躍を必要とした。私達もそうです。人が復活を信じる為には大きな飛躍を必要します。誰もがその信仰体験という道を通らなければなりません。神はその為に、彼を用いたのです。彼は他の弟子達が「私達は主を見た」と言うと、彼は「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言います。彼は、君達は主の死後、ユダヤ人を恐れ暗い部屋に閉じ籠もっていたから、ありもしない幻を見たのだろう、私なら実際に触って確かめなければ信じないと言ったのだと思います。酷い言葉です。でも、彼は真剣に信じたいと思ったのです。でも信じられないもどかしさがこの言葉の裏にあったと私は思っています。主は再び彼らの所に来て、トマスに「指を宛てて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者でなく、信じる者になれ」と言いました。霊の体で痛みを感じないからではありません。彼が信じる者になるなら、そんな痛みは問題ではなかったからです。主は今もその深い愛をもって私達に語り掛けています。復活した主は、私達が真に主が復活し、共に生き、歩んでいるとの復活信仰にしっかりと立つ者となることを願うからです。十字架に掛かって死んだけれども復活したイエスが、万物の創造者、維持者、完成者である主が、私の主として共にいると信じるなら、何事も恐れず、将来を安心して今を生きられます。その信じられない人々に、主はトマスに言ったように、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語り掛けていると伝える主の証人になりましょう。