メッセージ(大谷孝志師)
疲れない人生に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年4月19日
マタイ5:7-12 「疲れない人生に」 牧師 大谷 孝志

 聖書を読んでいるとよく驚かされる。イエスが人間というものをよく知っているから。それは主が私達人間を深く愛しているから。それ以上に、深く励まされ、慰められることがある。私達は教会に来ていても、主を礼拝していても、パウロがロマ書7章で言うように「したいと思う善を行わないで、したくない悪を行って」しまう。それでは決して神に喜ばれないと思い、不安や恐れを抱くことが。その私達でも神に喜ばれる者になれる、と主が私達を見ていると気付いた時に。何故出来るのかその理由を聖書は教えている。主は私達人間の弱さを知るので、人が出来るようにする為に助け手である聖霊を送ったからだと。私達が聖霊の助けと導きを素直に求めれば、聖霊は助け、神が喜ぶことをさせる。主がこう教えるのは、神に喜ばれる者になることが、人にとって一番大切と知るから。先週、山上の説教は人間には到底実行不可能な事が記されていると言った。主がこれを教えたのは、人間のことが全く分からないからではない。逆で、人間は自分の力だけでは神に喜ばれることが出来ないと知る。だからこれらの御言葉を教えた。

 主は「あわれみ深い者は幸い」と言う。憐れむ時に上から目線で相手を見たり、自分がよく見られたいとの思いがあるなら、逆効果。自分が神に憐れまれているとの自覚が必要。<我が身を抓って人の痛さを知れ>という言葉がある。自身の痛みを知る人が他人の痛みを知り、憐れめる。主はここで、自分が神に憐れまれていると知り、神から頂いた憐れみを他人に分け与える人は幸いと言う。その人は将来、或いは終末の時に大いなる幸いを神から受けるから、と主は教えている。

 次に主は「心の清い者は幸い」と言う。私は自分の心が清いと思ったことなどない。勿論主の十字架によって神に清い者と認められているから、牧師でいられる。しかし汚れた思い、醜い思いで満ちているのは事実。主は「心の清い者」について教えているのは、倫理的、道徳的純潔のことではなく、心がただ一つの事、神の事で占められていることを言う。生活の中で、自分や他人の事を考え、その余りで神の事を考えず、まず神の事を考え、御旨を、神に喜ばれる事を第一にする事。仕事や他人との付き合いでなく、神との付き合いを第一にする事。しかし世に生きていると、神との事より大事、大切な事が一杯見えてくるのはある意味仕方がない。でも、それに負けると、悪の力に負けることになってしまう。悪は自分を第一にさせることで、人間関係を壊し、自分の人生を壊す方向に人を進ませるから。これは決して幸いなことではない。だから主は心の清い者になれと教える。神一筋に生きられるようにと主は十字架に掛かって死んだ。心の清い人は神を見ると主は言う。その人は救われ、永遠の命を与えられ、神の子となるから。

 次に主は平和は人が造るものと教える。今の世にはコロナへの不安、恐れが満ち、戦争状態と言える。決して平和と言えない。だからこそ、私達が平和を造る者となることが必要と知ろう。自分達の力ではなく、恵みと平安を神に与えれてではあるのは言うまでもない。主は世に生きる全ての人にには苦難があると知る。だから「あわれみ深く、心清く、平和を造り出す者になれ」と言う。そうするなら、この世が幸いな人生を生きる神の国になると教える。これは「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う」ことでもある。主は、それが出来るようにしてあるからそうしてごらんと言う。主の愛を信じよう。主が共に生きるので、それが出来る。この世で疲れることなく、安心し、幸せを感じながら生きられる。感謝!