メッセージ(大谷孝志師)

主が必要としています
向島キリスト教会 復活祭後第三聖日礼拝説教 2020年5月3日
聖書 ヨハネ21:1-19「主が必要としています」  大谷孝志牧師

 私達は主イエスを礼拝しています。主は生きて今ここに共にいるからです。もしここにいなければ、私達が礼拝しているのは空しいだけになります。私達の教会の将来のビジョンは「たくさんの人の笑顔と讃美の歌声の響く教会」です。私達はこのビジョンの実現に向けて歩んでいます。この会堂にたくさんの笑顔と讃美の歌声が満ちるよう祈り求めましょう。主はたくさんの人がこの会堂に来て、礼拝することを何より望んでいます。先週教会に来たものの、余りの人数の少なさに、終わってから寂しそうに帰っていった方がいました。その姿に、私は主も悲しんでいると心に感じました。その時「体を殺しても、魂を殺せないものを恐れるな」との御言葉が響きました。昔、ある教会の牧師から「戦時中この御言葉をもって信徒を励ましたけれど、多くの信徒が礼拝に来なかった。「耶蘇、耶蘇」と叫んで礼拝堂の窓に石を投げつけられたが、少数の信徒と恐れず礼拝を続けた」と伺いました。コビット19の猛威で、世界中が異常事態の中にあります。私達が信じ礼拝している主は、この異常事態に陥っている世界の全てを支配する主です。主は、私達の信仰を炉に投げ入れ、試練の中に置くことで、不純物を取り除き、精錬し、純粋なものにしようとしているのです。主が私達を必要とし、この教会の働きを必要としているから、この状況に置いていると信じましょう。「堅く立って、動かされることなく主のわざに励みなさい」(Ⅰコリ15:8)との御言葉を心に刻みましょう。地の塩、世の光としての私達の証を、主が必要としているのです。勿論、教会に礼拝に来れば主が喜ぶのではありません。私達が主に喜ばれる事は何かを聖書を読み、御言葉に聞き、祈り求め、これが主に喜ばれる事だと信じた事をするなら、どこで主を礼拝しても、主はその信仰と決断を喜び、祝してくれます。弟子達に関わったように、主はこの異常事態をもって私達に関わり、私達を造り替えようとしているのです。ピンチをチャンスに変えましょう。そして主が備えている自分の道を見出し、歩いて行きましょう。

 主は、ユダヤ人を恐れて立ち上がれない弟子達を、信じない者ではなく信じる者に変える為にご自身を二度現し、三度目は、主と共に生き、主の働き人になるなら、豊かな恵みを受ける幸いを体験させ、ペテロと他の弟子達を変える為に現れたのです。彼らは、湖で夜通し漁をしたが何も捕れませんでした。しかし岸辺に立つ方の言う通りにすると、夥しい魚が捕れたのです。彼らは主の復活を既に知っています。しかし今そこにいて、求めるものを得られる方法を示したのが主とは気付けません。ある弟子が気付き「主だ」と言い、ペテロはこの方が主と分かりました。これは私達に大切な事を教えます。主を信じていても、生きて共にいる主が分かる人と分からない人がいるのです。霊の体に復活した主は肉眼では見えません。しかし、霊的に生ける主と出会い、主が確かに共にいると分かる人がいるのです。これは主が与える素晴らしい恵みです。主の恵みを戴き、今主が共にいると実感した人がその事実を証していく、それによって教会が大きく変わり、成長していきます。

 さて、ペテロはそのままでは主と共にいられないと思い、上着を纏い湖に飛び込みます。他の弟子達は魚の入った網を引いて陸に戻ります。舟は一艘ですから、他の弟子達もその声を聞いた筈です。しかし、上着を纏い水に飛び込み、主の御前に襟を正したのは、彼だけでした。私達は今主を礼拝していますが、彼のように主の御前にいる素晴らしさに心が震えているかと聖書は私達に問い掛けます。主が共にいることに心が震えると人生が変わります。

 主が現れたのは何の為でしょうか。彼らはエルサレムでなく、ティベリア湖畔、ガリラヤにいます。主が最初に神の国の福音を宣べ伝えた地です。主は、弟子達を神の国の福音を宣べ伝えるに相応しい者にする為、彼らを地の果てまで主の証人として宣教に遣わす準備の為、自分を捨て、自分の十字架を負って生きる者とする為に来たのです。福音宣教には大きな労苦が伴います。しかし、主が共に働く御業です。主が命じた事を行うのです。だから、宣教は失望に終わらず、豊かな実を結べると夥しい魚の奇跡で主は教えました。弟子達が魚の入った網を引いて戻り、陸に上がると朝食が用意してあり、主がパンと魚を彼らに与えました。主は、6章のティベリア湖畔で五つのパンと二匹の魚を分け与え、大勢の群衆が十分に食べた奇跡を、彼らに追体験させました。彼らに主の恵みを人々に分け与える務めを託し、主の証人としての務めの豊かさを教える為です。その務めを主は、私達にも与えています。

 その後、主はペテロに「あなたは私を愛しているか」と三度尋ねました。この対話にこの務めを託す理由と目的が示されています。大祭司の家の中庭で、彼が主を知らないと言った回数と同じです。大切な務めを託すことで彼を信頼をしていると示し、三度主を裏切った彼の心の重荷を取り去る為です。主は彼の弱さを知り、彼の信仰が無くならないように祈りました。彼は、主の言葉を思い出し、激しく泣いて、過去の過ちを悔い改めました。悔い改めるなら、それで十分なのです。主は愛をもって彼を温かく包み込んでいます。それが私達が今礼拝している主です。彼はこんな自分でも主が愛し、大切な働きに用いようとしていると知りました。主が彼の心を激しく揺さぶったのです。この感動こそが宣教のエネルギーになります。人は弱く、誘惑に負け、主の事より自分の事を優先させてしまいます。しかし主が、そのような自分の全てを知った上で主の証人として用いると分かると、弱い自分を自分が受け入れられるのです。これが大事です。自分が自分を受け入れられると、前向きになり、自分の可能性に目を向けられるようになるからです。まだ主を知らない世の人々に「主イエスを信じるなら、自分をそのままで受け入れ、新し人生を歩めます。私が良い例です」と、相手の方に証できるからです。

 主がペテロを選んで、御業を行う者、主に仕える者にしたのは、彼を選び、用いることで、主の証人となることは誰にでもできると教える為です。勿論主を信じていることは大前提ですが、彼のように自分への主の愛を知り、自分が主に愛されていると実感し、主との密接な関係にあることが大切です。その事実と信仰に立ちましょう。主に豊かな知恵と力を頂き、主に養われると、主が必要としている主を信じる素晴らしさを伝える働きが私達にもできます。