メッセージ(大谷孝志師)
本音と建て前
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年5月3日
マタイ5:21-26 「本音と建て前」 牧師 大谷 孝志

 私達は教会生活の中でも、本音と建て前を使い分けることがよくある。「私達は兄弟姉妹」という言葉も、上辺だけを装い建前で使ってしまうことがあるのでは。初代教会の人々は互いに「兄弟姉妹」と呼び合った。この福音書12:46ー50で、肉親が主を呼びに来たのを見た人々が、あなたの肉親が来てますよと告げた時、主は「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」と言った。この「兄弟姉妹」は勿論肉親ではない。主は信者の関係は肉親とは全く別の次元の家族であり、神の家族だと教えた。だから「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有した」(使徒2:43)

 12章で主の所に来た肉親は、主の母と兄弟達。次週は母の日だが、高校生の頃初めて教会に行った当時、高校生を含む青年達は、牧師夫人を「ママさん」と呼んでいた。自分の母親ではないが、私も牧師夫人をごく自然に「ママさん」と呼んだ。礼拝後に牧師館に集まり、冷蔵庫が空になるのもお構いなしに、皆でお昼を食べることも度々だった。今から半世紀以上前の事だから、古き良き時代だったのかも知れない。しかしそこには、本音で神の家族として生きる姿があった。

 主は「天におられるわたしの父のみこころを行うなら」という条件を付けている。無条件なのではない。今日の個所で主は、その父の御心とは何かを教えている。「昔の人々に言われた」事とは、神が神の民に律法で命じられたこと。こうすれば神に喜ばれ、神の民として生きられるが、こうすれば神の裁きを受けて滅ぼされると教えたもの、神が御心を示した掟。主は、兄弟に対して怒る者は、兄弟に恨まれるようなことをした者は、訴えられるようなことをした者は、それらの兄弟を殺したと同じ事をしたのだと教える。非常に厳しい宣言。主は人は弱く、本音をぶつけ合うことができず、建て前で付き合うことで無難に生きようとすると知るから。しかし、それでは互いに愛し合い、心を許し合い共に生きられない。

 主は「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を憎んでいるのを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」と言う。上辺だけの礼拝を神は喜ばない。神との関係を正しいものにしたければ、兄弟との関係を正しいものにせよと主は教える。ヨハネも第一の手紙4:20で「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」と言う。

 教会の交わりは建て前でなく、本音で付き合える交わり。主を信じ、主を礼拝しているなら、主が互いと共にいると、互いを愛していると信じている。互いに、全てを知り、私達の心の内を知る主の御前にいる。私達はその事を意識しよう。

 建て前でいる方が楽な気がするが、自分が神を信じ、委ねていれば、神が何とかしてくれると思うのは間違い。上辺だけの付き合いは、疑心暗鬼を生じ、結構疲れる。互いに本音で付き合うということは、ヨハネが言うように愛し合うこと。愛し合えると相手への信頼心が強く、豊かになる。多少の言葉や感情の行き違いが生じても、受け入れ合えたり、時を待てる。私達がその付き合いをし、思いを一つして神と共に生きると、神は喜ぶと主は教える。主の言葉を上辺だけで理解したつもりになると、私達の心も互いとの関係も豊かにならない。主に全てを委ねて、心から主を信頼し、互いに信頼し合えるよう本音で付き合う者になろう。