メッセージ(大谷孝志師)

信仰が継承される喜び
向島キリスト教会 母の日聖日礼拝説教 2020年5月10日
聖書 Ⅱテモテ1:1-7「信仰が継承される喜び」  大谷孝志牧師

今日5月の第二日曜は母の日です。この行事は、100年程前に米国のウエストバージニア州のメソジスト教会で始まり、全世界に広まっています。とは言え、この日に行う国は31カ国で、春分の日や5月の最終日曜の国もあります。隣の韓国では母の日ではなく、5月8日を両親の日としています。十戒に「あなたの父と母とを敬え」とあるので、両親の日の方が良いと思いますが、母の日の方が重い印象を与えるからでしょうか。アメリカでも母の日が記念日として定められたのが父の日の1966年より遙かに早い1914年でした。日本でも母の日は大々的に行われていまが、。父の日は半世紀も前にデパートの戦略の一つとして大々的に宣伝され、定着してはいても、つい忘れられてしまうのが現実ではないでしょうか。家庭内における母が持つ重さがそれ程大きいと言えるのでしょう。皆さんの母親もそれだけ重く大切な働きをしてきたのです。そして幾つになっても母として家族に大切な働きをしている方も多いと思います。今日は母の日、そのようなお母さん方に心か感謝する日です。

 今日の個所のテモテの母ユニケは、使徒16章によるとユダヤ人キリスト者です。彼の父はギリシア人ですが、信者であったかどうかも名前も不明です。ここで忘れられていると思ってしまうのは、父親のひがみなのでしょうか。

 そのユニケの母ロイスもキリスト者でした。テモテはクリスチャンホームに育った人として歴史に最初に登場した人と言えます。彼を愛する子と呼び、この手紙を書いたパウロは、彼の信仰は、最初彼の祖母ロイスと母ユニケの内に宿ったもので、それが彼の内にも宿っていると確信していると言います。祖母から母に、母から子に信仰が与えられたのではありません。まして、パウロが与えたのでもありません。神がテモテに賜物として信仰を与えたのです。それが「宿った」という言葉をパウロが使っている理由なのです。

 両親や祖父母の誰かがキリスト者でも、牧師夫婦でも、その子や孫がキリスト者になるとは限らないのが現実です。今週の説教題も「信仰が継承される」という受動態であって、「信仰を継承する」という能動態ではありません。信仰は自分の家業のように子に引き継がせられるものでもないし、両親や祖父母が子や孫に強制できるものでもありません。信仰を持てるということは、人の努力の結果ではなく、恵みとして神から与えられることです。

 しかしテモテの家庭において信仰が継承されていった事実は、私達が心に留めるべき大切な事です。何と言っても、信仰が継承されること、家族揃って礼拝に出席でられることは、その家庭が神に祝福されているしるしだからです。この信仰が継承された彼の家庭の姿を思いつつ御言葉を学びましょう。

 テモテがキリスト者になりましたが、母と祖母のキリスト者としての生き方が、彼が真似したくなるものだったどうかは書かれていません。少なくとも拒否したくなるようなものではなかった筈です。彼女達は神の祝福を常に身近に感じて生きていたのでしょう。彼がキリスト者になったのも、母達のの生き方に魅力を感じ、その生き方を選び取ったからだと私は思っています。

 確かに、信仰の継承は神が恵みとしてその家庭に与えたものです。しかし、信仰が両親や祖父母から子や孫に継承されるには、年長者のキリスト者としての生き方と受ける側の子らの素直さの両方が必要なので、テモテの家庭がその良い例に成っていると聖書は私達に教えているのではないでしょうか。

 とは言え、親と子は別人格です。信じる信じないは子に任せるしかないのが現実です。しかし子が救われることを願わないキリスト者の親はいないでしょう。子に信仰が継承され、その子が救われた時の喜びの大きさは計り知れません。勿論親も人間ですから完全な生き方はできません。でも、出来ることは有る筈です。親が喜んで主イエスを信じているなら、その喜びは必ず子に伝わっているからと言う人がいました。確かに「親の背を見て子は育つ」という格言があります。私はこれまで「背」は背中だと思っていましたが違いました。「身の丈」のことで、「生き方や考え方」「親の常識が子の常識になる」という意味なのだそうです。しかし信仰は別ですね。親が一生懸命に主イエスを信じて生きていても、その子が救われるとは限らないからです。信仰は、神が与えるものです。人が自分の力や意思で獲得するものではないからです。それに、神が与えているのに、子の方で気付かない場合も有ります。だからと言って、信仰が継承される喜びは、求めても求めても与えられないと諦める必要はありません。主は「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」と主が教えているからです。自分の信仰は子や孫に継承されると信じましょう。

 現実に信仰が継承されている家族を私は幾つも知っています。その例を見ると、親達の信仰者としての生き方が良かったからとは必ずしも言えません。逆に祈っても祈っても子が信仰を継承しないケースもたくさん知っています。その家族の信仰をとやかく言うべきでもありません。何度も言いますが、信仰は神が与えるものなのです。子や孫が自分の意思と決断で受け取るものなのです。信仰の継承は、神がその家族に恵みとして与えるものだからです。

 大切な事は、自分が主に対して偽りのない信仰を保ち続ける事、喜んで主に仕え、喜んで人に仕えていく事、それだけで良いのです。その為に、キリスト者にはバプテスマを受けた時に神の賜物が与えられています。それを燃え立たせれば良いのです。パウロが言うように、「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と慎みの霊を与えてくださいました」と言います。私達は自分を見るとつい駄目だと思ってしまいます。こんな自分には無理だと。ですから自分を見ずに、聖霊が宿り、神の宮にされている自分を見詰め直しましょう。子に限らず他の人の救いに自分の力は到底及びません。だからこそ御霊の導きを求めれば良いのです。いや、それしか私達に方法はないのです。そして御霊が導き助けるから自分達にもできると信じましょう。力が湧いてきます。救われて欲しいと願う方々に仕える思いで、愛と慎みをもって接しましょう。

 母の日のこの日、信仰が継承されたテモテの家庭についての御言葉を学びました。私達も自分の家庭、属する群れの中で、愛する人に信仰が継承される喜びを共に味わうものになりましょう。求めれば神は与えて下さいます。