メッセージ(大谷孝志師)
不可能を可能にする主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年5月10日
マタイ5:17-20 「不可能を可能にする主」 牧師 大谷 孝志

 主イエスはここで「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません」と言う。「預言者」は人ではない。「律法と預言者」旧約聖書により神が示した神の民である為には「こうすべき、こうすべきでない」と示した教え。主イエスの話を聞きに来た大勢の群衆に、主がこう言ったのは、この人々がイエスと一緒にいると、それ迄の重苦しい生活から抜け出して、もっと自由な生き方ができると思っていたから。言うならば、新しい時代の到来を予感していたから。この人達はシリア全域に住む主イエスと同じユダヤ人、会堂で礼拝を守り、律法を守るよう教えられていた。しかし律法は、私達が考える法律や規則とは違って、細かく決められ、きちんと守るよう教えられ、人々をがんじがらめに縛り付けていた。これに対し主の言葉は、これをしなさい、これをしてはいけませんという命令でなく、5章最初の教えのように、こういう人はこうなりますよという教えなので、易しく感じられ、これくらいなら守れるし、今よりはずっと自由に生きられると来ている人々は考えた。しかし主はその考えは間違っていると教えた。

 前にも言ったが、この山の上で教えた内容は、とても厳しくてその通り行おうと思っても、とても難しい。できないと思ってしまう程のもの。でも主は「律法の一点一画も決して消え去ることはありません。全てが実現します」と言う。この「全て実現します」との御言葉が重要な意味を持つ。人々に一生懸命に律法を守らなくてはいけない。そうしないと天の御国には入れない、と教えるのではない。では「これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また、破るように教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」と言うのは何故か。主は決して人々を脅しているのではない。そうではなく、これができるよ、こうすれば良いのだよと教える。賜物与えられているのでそれを用いれば良い。だから、破るよう教えたら駄目で、守るように教えるなら、神が喜ばれると主は教えている。

 次の「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国には入れません」でも、主は同じ事を教えている。当時のユダヤ人は様々な種別に分かれていた。主のもとに集まってきた人々は、「地の民」、庶民と呼ばれた人々、律法学者やパリサイ人は、律法を説明し、守るように教えた人で、庶民から見れば正しさの点で言えば雲の上のような人々。その人達のよりも正しい生き方をしなければならないとしたら、とても無理の一言に。

 しかし大切なのは、これを主イエスがそう教えている事。私達はこの言葉を、十字架と復活の主の言葉として聞くことが求められている。神は、私達を愛する天の父。私達を神の子になる資格を与える為に、御子を私達に与えた方。人が主イエスを信じ、信仰を告白し、バプテスマを受けるなら、罪を赦され、神と共に、主イエスと共に生きる者となれる。主の愛に包まれ、主が支配する世界に生きられる。私達を律法学者やパリサイ人の正しさにまさる者と主がしてくれている。御前に正しい者として生きられる。主イエスの山上での教えは私達には到底守ることは不可能。しかしその不可能を可能にする為に、主イエスは十字架で私達の罪を贖い、復活して今も、助け導いている。私達はその主を信じている。私にも出来ると信じて、主の御言葉を行い、神に、そして人々に喜ばれる人生を歩んでいこう。そのような私達を主イエスが、天の父なる神が何よりも喜ばれるから。